※このお話は小説「一歩前へ」から設定がつながっております。 未読の方はそちらからどうぞ。 『面影を追いかけてる』
◆Hikaru-Side◆ 「今年の北斗杯って5人の団体戦なんだってな。 来週の予選、楽しみだな!オマエと当たるかな〜。 対局はしたいけど、一緒に北斗杯には出たいしなァ」 いつものように塔矢と碁会所で打った。 今日はオレの快勝だった。すっごく気分がいい。 去年初めて行われた北斗杯が今年も開催されることが正式に決まった。 今日も塔矢に勝てたし、ここのところずっとオレは絶好調だ。 このまま、北斗杯に乗り込んでやる! そんなオレの言葉に、塔矢は碁石を片付けていた手を止め、顔を上げた。 「・・・ボクは、今年も選手に決定している」 「え?」 「予選には出ない」 「え?なんで?オマエだけ?今年はオレだってオマエと並ぶくらいイイ成績だぜ!? 棋聖戦だって最終予選に残ってるし、本因坊戦だって名人戦だってオマエと 同じに勝ち残ってるじゃん!」 ショックだった。 ・・・そりゃ、去年の若獅子戦でも結局負けちゃって、まだ正式な対局で塔矢に勝ったことないから、棋院の人から見りゃあまだまだ塔矢より下だと思われてるのかもしれないけど、でも、それ以降は塔矢と同じくらい勝ってるし、少なくとも、予選で戦うだろう和谷や越智より、言っちゃ悪いけど成績はずっと上だ。 それなのに。 「ボクもそう思ったから棋院の人に聞いたよ。 理由としては、キミが去年の北斗杯で2敗している、 以前無断で休み続けたキミへの信頼の低さ、そういうものが挙げられていた」 「そ、そんなの、もう前の話じゃん。 今年のオレの成績には関係ないよ!」 「それは違うぞ」 突然、横から北島さんに口を挟まれる。 「国を背負う戦いだからな、ただ碁が強いってだけじゃダメだぞォ! やっぱりアキラくんのように日本代表として恥ずかしくない人格者じゃないと! 進藤じゃまだまだだ!」 「・・・塔矢の人格って相手によってかわるけどな」 ボソッと呟くと、塔矢がチラリとオレを見た。う、怖いんだよ、その目。 でもホントのことじゃん。特にオレの前では全然違うし。・・・ったく北島さんにも教えてやりたいよ、ここじゃイイ子な塔矢が、北島さんに隠れてオレにあーんなこととかこーんなこととか言ったりしたりしてるんだって。 「・・・とにかく、ここでボクに愚痴を言っても仕方がないよ。 予選で勝て。そうやって一つずつ、築き上げていくしかないんだ」 「そうそう!囲碁みたいに歴史のある立派なものはな、 近頃流行のヒルズだかなんだかしらんが、ああいう一朝一夕で 変化する浮ついたものと違って、日頃の積み重ねがものをいうんだ。 こうしてオレみたいに毎日打ってだなあ、歴史の重みに想いを馳せるわけよ。 オマエみたいにちょっと強くなったからって過信するようなヤツはまだまだだ」 ムッカ〜〜! 北島さんってどうしてこういつもオレにつっかかるかな!? 「別に過信してねェよ! でも、今のオレと塔矢でそんなに差があるなんてこと、オレは認めねェ! 今日だって勝った、北斗杯の予選で戦えば、勝てるかもしれないだろ?! オレは、今年こそ実力で大将になって、絶対高永夏を倒したいんだ!」 「アキラくんと差がないだとォ?100年早いわ!」 オレの言葉に反応したのは北島さんの方で、塔矢は、静かに目を伏せて最後の碁石を碁笥に入れた。 ・・・なんだよ、その余裕。 今みたいに、周りの目がある時の塔矢は、オレのことが好き・・・なんてことは、オレが見た夢なんじゃないかって思うくらい、ただのライバルだった頃と同じ。変わりない。 ・・・でも、そんな塔矢に不安を感じちゃう時、オレって、塔矢のこと、やっぱり好きなんだよな、って思っちまう。 オレの方が塔矢のこと好きなんじゃないかって思う今みたいな瞬間が訪れるたび、なんか、悔しくて。 だから、 「・・・もういい。予選が終わるまでここには来ない」 1年前と同じ台詞を口にして、オレは席を立つ。 「棋院の人たちに文句を言わせないくらいの碁を見せて、北斗杯に出てやる」 そんなオレを、塔矢は黙って見上げた。 目が合って、数秒。 「勝って来い」 返された言葉は一言。 不意に高永夏戦の前夜に『無様な結果は許さない』と言った時の塔矢の目を思い出した。 オレを見つめる塔矢に背を向けて、オレは碁会所を出た。 「あーちくしょ!半目負けかよ!」 「やー、でも危ないとこやったわ」 碁会所に行かなくなってからはもっぱら和谷の部屋で打ってる。 今日は伊角さんと、珍しく越智も来てる。 それから社。 予選のために前日の夜から東京に行くって連絡があったからオレが誘った。 今日は和谷の部屋にオレも一緒に泊まる予定だ。 和谷に半目勝ちした社はオレに 「なァ、ここの手やけど、オマエやったらどう打った?」 と、今の対局を並べて聞いてくる。 「んー、オレならこっちだったかな。そうするとこの石が難しくなるだろ」 「・・・・・・・・あー・・・なるほどなァ。 やっぱりなァ」 社が関心したようにため息をつく。 「何が「やっぱり」なんだ?」 「なんやオマエ、去年よりだいぶ強くなっとんのとちゃうか? 棋聖戦もあと一勝でリーグ入りやて?」 「ああ、一足先に塔矢がリーグ入り決めちゃったから、 絶対オレも入ってやる」 「塔矢なあ、アイツも相変わらずやな。今年も先に選手に決定しとるんやて?」 「そーなんだよなあ〜、確かに強いけどさ、進藤も予選からやらせるなら、 アイツも同等だと思うけどなあ」 うう、そう言ってくれるか、サンキュー、和谷。 「たとえ実力が同等でも、棋院にとって進藤と塔矢は同等じゃないよ」 突然、越智が口を挟んでくる。 「・・・オレが去年北斗杯で負けたり、一時期無断で休んだからか?」 北島さんに言われたことを挙げてみると、越智は眼鏡のフレームの真ん中を指で押し上げながら、 「それもあるけど、塔矢はあの塔矢行洋先生の息子だ。 棋院としては塔矢が北斗杯に出てくれた方が話題性が高くなるし スポンサーに対しても塔矢の商品価値は高いからね」 「げー、シビアなこと言うなー」 「確かに、碁界にとっては新規参入のスポンサーが付く大会だし、 今後のためにビジネス的な面も出てくるだろうな」 和谷と伊角さんが越智の言葉に対する感想を言っている間、オレの頭の中は越智の言った単語がグルグルと回っていた。 「商品価値?」 思わず口に出してしまうと、すかさず越智が 「そうさ、商品さ、ボクたちはね。 ただ碁を打ったって、本来なら1円にもならないだろ? でも、そのボクたちの碁を見るためにお金を払おうという人間もいる。 そういう人間がいないとボクらの商売は成り立たない」 と言った。 「商売って・・・」 なんか、ちょっと・・・ショックなんだけど。 「ある意味ではそうだな、オレたちがやっていることは非生産的であって、 そういう意味ではスポーツ選手とかと一緒だよ。 スター選手がいれば、観る人が増える、スポンサーが付いてお金が入る。 オレたちの手合い料は一部の人気棋士によって稼がれていると思っても いいくらいだ。 塔矢は確かに、稼ぎ頭にカウントされているだろうな」 ・・・伊角さんまでそんなこと言うなんて。 「あれやな、ただ碁を打ちたくて打っとるようなつもりでも、 オレらはプロやし、金になる碁を打たなあかん時もあるやろな」 「塔矢も・・・そんな風に思ったことあるのかな?」 「堅物だから「金の為」ってことはないかもしれねェけど、 囲碁界のためとかって理不尽なことをさせられる時はありそうだよな」 と、和谷。 「棋院の待遇の違いから、裏ではけっこう妬まれてたりすることあるしな」 「え?そうなの?」 伊角さんの言葉にオレは驚く。 「特別扱いで低段の頃から取材も多し、親の七光りとかよく言われてるじゃん。 まァ、さすがによく一緒にいるオマエの前じゃ言わないか」 知らなかったのか、というようなあきれ顔で和谷までそんなことを言う。 「親の七光りって・・・塔矢は自分の努力であの力を手に入れてるんだ! 親が強けりゃ強くなるっていうなら森下先生んちなんかどーすんだよ!」 「進藤!そりゃ禁句!」 和谷に頭を小突かれた。 「・・・でもさ、正直、進藤は思ったりしないか? もしも、自分の父親が塔矢先生で、毎日、あの塔矢先生の指導を受けて 育てられたらもっと強くなれたかもしれない、とか、さ。 とくに進藤は師匠いないんだから、いたら今以上にすごかった かもしれないんだぜ?素質だけでいったら塔矢より上かもしれないし。 同じ環境だったら自分の方が強くなっていたかもしれないって 思ったこと・・・ないか?」 伊角さんは遠慮がちに聞いてきたけど、周りの皆も同じようなこと考えてたって感じの顔をして、オレの答えを待っているみたいだった。 「・・・オレにとって塔矢は塔矢であって誰が親かなんて関係ないよ。 オレがもしも塔矢先生の子供だったとしても、塔矢みたいなヤツに 出会わなかったら碁なんか興味すら持たなかったと思うし」 「塔矢と会って碁を始めたんか?」 と社。 「・・・いや、その前にちょっと碁を打つ機会があって・・・。 塔矢とは塔矢の碁会所で初めて会ったんだ。 その時はどうってわけでもなかったけど・・・2度目に会って、アイツがオレに 挑んできた時、その真剣な目っつーか、気迫っつーか、とにかく それまでフッツーにダラダラ小学生してたオレにとって塔矢は衝撃だったんだ。 スゴイって思った。オレもこんな風に真剣に何かに打ち込んでみたい、 塔矢のこの目をずっとオレに向けさせたいって思って・・・。 オレがプロ棋士になったのって、塔矢ともう一度対局するためだったから。 塔矢先生とか緒方先生とか・・・まだまだ塔矢より強い人はいるけど、 オレには、塔矢との対局は特別なんだ。 同い年だから一番のライバルってこともあるけど、 強いってだけじゃない魅力があるんだ、オレにとってはさ」 「塔矢にとっても進藤は特別だよね。 昔から異常なくらい塔矢は進藤に執着してると思うし」 「異常ってヒドイな〜越智」 いや、ホントはオレもちょっとそう思うけど。 「でも、結局、塔矢のことを塔矢アキラ個人として見てる人間なんて 碁界には進藤ぐらいかもな」 「・・・和谷は、どう見てるんだ?」 「オレは・・・まァ、「塔矢先生のいけ好かない息子」かな。 ネット碁で対局するためにプロ試験すっぽかすようなヤツだぜ? オレたちがあんなに必死に手に入れたきた勝ち星をあっさり捨てて 余裕でいられるヤツなんてさ、やっぱり世界が違うよ。 オマエの大事なヤツだってのはわかってるけど、オレは今でも 気にくわないと思ってる」 「なんや、和谷サンは塔矢と仲悪かったんか」 「仲悪いというか、和谷が一方的に嫌ってるだけだよね。 塔矢は和谷なんか眼中にもないよ」 「なんだとォ!?」 図星を突かれて怒った和谷が越智にヘッドロックをかけてるのを眺めながら、オレは今までの会話を思い返す。 オレは、ただ、強くなりたくて、塔矢とずっと打ちたくて、ただただ碁を打つってことだけ考えていたのに、そんな間にも塔矢はそれだけじゃなくて、いろいろなものを背負って、オレの知らないところで辛い思いをして・・・。 なんだか急に、塔矢が遠く感じた。 だから、 会いたい、そばに行きたいって、思った。 「・・・負けました・・・」 関西棋院から来た安田二段が投了して、オレの北斗杯出場は決まった。 あっさり勝ち抜いて正直拍子抜けだ。こういっちゃなんだけど、トーナメント表で対局相手を見る限り、有力候補って見られてる社や越智もバラけてるし、オレの予選なんて形だけのものだったみたいだ。 周りを見ると、社、和谷、越智はまだ対局中だった。 今年は中国、韓国の他に台湾も参戦することが正式に決まったらしい。 しかも、五人の団体戦にするってことで、今日は塔矢を除いた四人を決定する予選が行われていた。 とりあえず周りの対局状況を見に行く。 社は・・・これはもう決まったな。和谷は・・・お!大丈夫そうじゃん!越智は・・・っと・・・あれ、けっこう苦戦してるな、でも勝てそうか。 よし、とオレは対局部屋を出る。 塔矢に、電話しよう。 出場決まったぞって。 あ、それとも碁会所に行こうかな。アイツのことだからあそこで待ってるかも。碁会所に行く=選手決定ってことだもんな。三週間ぶりに、堂々と会いに行けるぜ。 でも、去年もこの後、取材やら写真撮影やらいろいろ時間かかったよなあ・・・なんて、思いながら、自販機の前に行ったら、隣りのベンチに、塔矢が、いた。 「出場決定、おめでとう」 「・・・なんで知ってるんだよ」 「キミの顔に書いてあった」 「え?勝った!って?」 「・・・いや」 「?」 「ボクに会いに行けるって」 「!・・・ばっ・・・!書いてねェよ!」 「あれ?その反応は図星だった?」 「当たってねェ!」 そう言いながらも、自分の顔が赤くなってるのがわかった。・・・くっそ〜〜ポーカーフェイスって苦手なんだよ!そんなオレの反応に、余裕有り気に笑う塔矢、ムカツク! 「オマエこそ、オレに会いたかったんだろ!わざわざこんなとこまで来やがって」 「うん。碁会所で待ってれば来てくれると思ってたけど、早くキミに会いたかったから」 ・・・・・・なんつーか、そういう台詞、さらっと言うなよなあ。変に素直というか、なんというか・・・。 はあ、敵わねェな、まったく。 「・・・ありがとな」 オレも、ちょっとばかり素直になってみた。でも、オレの言葉に微笑み返されたら、やっぱり猛烈な照れくささが込み上げて、逃げるように自販機に向かう。 塔矢はお茶を飲んでたから自分の分だけファンタを買って、平静を装って隣りに座った。 「社は決まったと思う。和谷も越智もいけそうだ」 「そうか。じゃあ今年は知った顔ばかりになるな。 去年の社みたいに新しい出会いがあるのも良いけどね」 「他の国はどうなのかな?秀英とか、・・・高永夏とか。今年も出るよな?」 「ここに来る前に聞いてきたよ。韓国は去年の三人は出るそうだ。 中国はまだみたいだ。今年から参戦する台湾には、 お父さんも注目する新人が出るらしい」 「へえ〜塔矢先生が注目してるなんてすごいな!どんなヤツ?」 「プロになったばかりで、データがないんだ。 でも、お父さんは『才能のある子だ』って言ってた」 「ふ〜ん」 「いずれにせよ、打ってみなければ何もわからないよ」 「ま、そうだな」 オレはファンタを一気に飲む。ぷはーっ美味い〜!大人が仕事の後の一杯!って美味しそうにビール飲むけどこんな気分なのかな。 会話が途切れて、オレたちはしばらく黙って座っていた。 でも、それは話題を探せない沈黙じゃなくて、なんだか心地良い空間だった。 三週間ぶりに塔矢が隣りにいる。 それだけで、嬉しくて。 「おー塔矢やないかー」 「あ、社!その顔は代表決まったな?」 立ち上がって空き缶をゴミ箱に投げ入れた。 「決まったでー。今年もよろしゅうな」 「おめでとう。今年もよろしく」 塔矢の言葉にオレは思わず吹き出す。 「なんだかそれ、正月の挨拶みたいだなー」 「ホンマや。でも今年に入ってから会うの初めてやったな。あらためて今年もヨロシク」 「他の結果はどうなりそう?」 「和谷サンは勝ったで。今、越智戦を見とるわ」 「越智、どうなってる?」 「決まると思うで」 「見に行くか?」 塔矢に問う。 「いや、ボクがいって変に集中が乱れても悪いし、ここにいるよ」 「そや、塔矢、今年も合宿するんか?」 「そうだね、今年はどうしようか。たぶん両親が家にいると思うけど・・・」 「と、塔矢先生がおるんか・・・。で、でも、ええ緊張感が味わえそうやな」 「和谷んとこはどうかな、5人じゃ狭いかな・・・」 オレの提案に、塔矢が意外そうな顔を向ける。 「進藤も父がいるのが嫌なのか?」 「え?い、いや別にそういうわけじゃないけど、ほ、ほら、食事とか、 5人もいたら塔矢のお母さんに迷惑かけそうじゃん」 慌てて取り繕う。 「うちは普段から門下生とかたくさんくるから慣れてるし、 そういう面では問題ないと思うけど」 そうだよなあ、塔矢家は来客が多いもんなあ。 と、その時、対局場が騒がしくなってきた。 「あ、対局終わったみたいだな。とりあえず行こうぜ」 オレは話を打ち切る。 塔矢先生に会ったら、きっと、必ず、「sai」の話になる。 話してしまった方がいいのか、まだ、避けた方がいいのか、オレはずっと迷っていた。こんな中途半端な状態で会うことになったら、きっと塔矢先生に不快な思いをさせるだろうし。 「進藤君、社君!・・・おや、塔矢君も来ていましたか」 呼ばれてそちらを見ると、北斗通信社の人だった。名前は、えーと・・・なんだっけ。 「今年も去年の3人は決まりましたか。さすがですね」 「ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」 頭を下げた塔矢につられてオレと社も会釈する。 「戸刈さん、もう対局終わりました?」 あ、そうそう、戸刈さんだ。社、覚えがいいなあ。 「ああ、越智くんが勝ったよ。去年のことがあるからね、今年は人数を 増やしたとはいえ、彼も出ることが出来て良かった。 後は、和谷くん、だったかな?今年の対局も楽しみにさせてもらうよ。 いや、実はね、私は囲碁のことは全然知らなかったんだが、 去年の大会をきっかけに興味をもってね、初めてみたんだよ。 今年は去年よりずっと楽しめそうだ」 ・・・わぁ、なんか、嬉しいな。オレたちの対局見て、碁を初めてくれる人がいるって。 こんな風に、囲碁やってて良かったな〜とあらためて思うことがある。 そんな碁の世界にオレを引きずり込んだヤツの横顔を見ようとしたら、まるで思いが同調したかのように、塔矢もオレを見て、微笑んだ。 「さー久々に打つぞ〜!」 と、意気込んで始めた対局。 北斗杯の予選が終わった後、碁会所よりもオレの家の方が近かったから、オレの部屋で三週間ぶりに打ったんだけど、オレの4目半負けという悲しい結果に。 「今日はキミ、疲れてるだろう?朝から対局続きだしその後も取材やらなんやらで」 「う〜ん・・・」 それでも、久々に打つと、やっぱり塔矢は強い。だから、負けたんだ。 和谷の部屋に来て打つ人たちにも強い人はいるし、負けることもあるけど、負けた時の気持ちも塔矢相手だと全然違う。悔しいとか、そういう気持ちももちろんあるけど・・・塔矢が強いと嬉しいって思っちゃうんだよなあ。コイツが打つその一手一手に心が震える。ワクワクする。楽しくて楽しくて。・・・打ちながら、疲れなんか吹っ飛んだと思ってたのに、負けちゃうなんてなあ。 「そろそろお暇するよ。今日はゆっくり休むといい」 そう言って碁石を片付け立ち上がろうとした塔矢の腕を思わず掴む。 「・・・どうした?」 「え?あ、いや・・・」 とっさに掴んじまった。 三週間ぶりに触れた塔矢。 掴んだ手が、熱い。 「・・・このまま帰ろうと思ったんだけどな」 「・・・え?」 「これだから、キミに触れないようにしてたのに」 そう言って、困ったような笑みを浮かべた塔矢は、次の瞬間オレの手をグッとひっぱって、腰を浮かせたオレはそのまま塔矢に引き寄せられて、唇が、触れ合った。 とたんに火が付いたみたいに体が熱くなって。 初めての時は掠めるように触れただけだった。 次第に、触れ合う時間が長くなって、今はもう、こんなに、深い。 唇が離れた瞬間、塔矢の熱い、吐息のような、ため息。 「・・・ダメだな。ホントは久しぶりにキミと打てた事に満足して終わりたかったのに・・・ キミといるとどんどん欲深くなってしまうよ」 「・・・別に我慢するこたーねェじゃん」 「・・・うん。そうだよね」 そう言った微笑んだ塔矢が、なんだかとても寂しそうで、オレはわけのわからない不安にかられる。 「・・・なんで?オレだって久しぶりに会ったんだから、したかったってば! そんな風に思ってたのは自分だけなんて、思うなよな・・・」 いまだに、塔矢は信じてない気がする。オレも、塔矢のことちゃんと好きだってこと。 まあ、なかなか返事しなかったオレに原因があるんだろうけど。 「・・・ちったぁオレのこと信じろよ」 塔矢の頭を腕の中でギュッと抱き締める。 ・・・うぉ〜相変わらず・・・コイツの髪ってサラッサラ・・・。 「コ、コラ!何をする!?」 いけね、無意識のうちに髪をクシャクシャいじっちまった。 「ごめん、手触り良くて、つい」 オレから逃れる塔矢。するりとオレの指を離れていく髪。 もし、触れることが出来たら、アイツの髪もこんな感じだったんだろうな。 そばにいる時は特別意識することなんてなかったけど、こんな風に綺麗だったと、触れるたびに思い出す。 「・・・進藤?」 オレがぼーっと見ていたからだろう、塔矢が訝しげに呼びかける。 ・・・まただ。 オレ、気付くと、塔矢にアイツの面影を見てる。 そのたびに感じる、罪悪感。 そのたびに感じる、不安。 消えないでくれと、叫びたかった。 一緒にいることが当たり前すぎて、どれだけ大切な人だったか、気付けなかった。 同じ過ちは、二度と繰り返したくない。 すがるように、抱き締めた。 「・・・進藤?」 呼びかけられた後、ゆっくりと背中に回された腕に包まれて、安心する。 ・・・と思ったのに。 「・・・オマエの心臓、すっげェ早ェ」 どんどん早くなっていく鼓動にびっくりして、見上げると顔を赤くした塔矢。 「・・・キ、キミが急に抱きついてくるから」 「え?なんで?ビックリした?オレ、安心くつろぎモードだったんだけどなァ」 「・・・キミ、ボクが真面目で安全な男だと思ってるだろう?」 「・・・なんだよ突然。そりゃ、少なくとも不真面目で危険な男ってイメージじゃねェだろ」 ・・・まあ、たまに違った意味で危ないヤツだけど。 「・・・だが、ボクだって、自分の理性に自信がなくなる時ぐらいあるぞ」 「・・・は?なんで?」 「なっなんでって、キミが好きだからだろ!?」 ・・・ったく、ホント、真面目なヤツ。 「ってゆーか、さっきも言ったけどなんで好きなのに我慢するんだよ。 別にオレ、嫌がってないんだからすりゃーいいじゃん」 「・・・す、すればって」 ・・・なんでそこでそんな赤くなるかなあ。 「キスなんて外国じゃ挨拶だっていうぞー。 オマエ、やっぱり真面目だよなあ・・・って、あれ?」 塔矢が、思いっきり脱力してる。 オレ、変なこと言ったか?いや、そりゃ、挨拶のキスとさっきのは違うけどさあ・・・。 とか考えてたら、塔矢のヤツ、いつの間にか肩震わせて笑ってやがった。 「なんで笑うんだ!?」 「ご、ごめん」 そう言いながらも笑っている塔矢。 「嫌いになるぞぉ!?」 「ごめんってば。うん、キミってさ、ボク以上に真面目かもしれないな」 「なんで!?」 「いや、うん、でも」 そういうところも好きだと言いながらキスされて、その話題を終わらされた。 ・・・う〜ん、なんかズルイなあ。 ・・・ま、でも、いっか。 こんなキスされたら、許してやらなきゃ、かな。 「あ!そうだ、オレ、オマエに謝らなきゃいけないことがあったんだ!」 「え?」 先日、和谷の部屋で出た話題を急に思い出した。 そーだよ、オレが許すとかいう以前にそっちが先だよ。 「えっと・・・なんてゆーか・・・オマエが予選出ないことに文句言ったり 意地張って会わないとかいって、悪かったよ。 オマエも・・・トクベツ扱いされて、いい気分だったわけないのにな」 「どうした?急に。・・・誰かに何か、言われたのか?」 心配そうに問われる。塔矢ってば、オレに甘いなぁ・・・。 オレは、塔矢が嫌な思いをしないように言葉を選んで和谷の部屋で出た話題について伝えた。その時、自分がどう思ったかも。 塔矢は、ふっと笑ってオレを見た。 「別に、気にするな。ボクが棋院で優遇されているのは事実だ」 「・・・オレ、気付かなくてごめんな」 「謝ることはない。気付かなかったということは、逆を言えば進藤が ボクを「塔矢行洋の息子」という目で見ていないことの証だろう? それはボクにとって、とても大切なことだ」 「塔矢・・・」 「誤解しないでくれ。ボクは塔矢行洋の息子であることを誇りに思っている。 だから親の七光りと言われても、それをはねのける碁を打てる自分でありたい、 そう、思ってる」 「・・・うん。『塔矢の打つ碁が、塔矢のすべてだ』な」 いつか言われた言葉を返すと、気付いた塔矢が微笑む。 「そう、他の誰も関係ない。自分の碁を、打つだけだ」 「北斗杯、頑張ろうぜ」 「ああ」 北斗杯が始まる。 アイツがいなくなって、二度目の五月がやってくる。 |
◆Akira-Side◆ 「・・・ありません」 投了したその声は震えていた。 その目は盤上に厳しく注がれたままで、ボクを見ることはなかった。 「決まりだぞ、進藤。今年の大将は塔矢だ。わかったな」 そう告げる倉田さんの言葉も耳に入らないかのように、ひたすら碁盤を見つめている。 色がかわるほど強く握り締められている拳。 どんなにか、勝ちたかったろうと思う。 でも、負けるわけにはいかなかった。 北斗杯を二日後に控え、ボクの家で北斗杯出場メンバーと、今年も団長になった倉田さんとで、団体戦の順番を決める対局を行った。 実績を考慮して対局した結果、先鋒・和谷、次鋒・越智、中堅・社、そして、副将・大将を決める対局をボクと進藤で行い、今、その決着がついた。 一目半。際どい戦いを制した。それなのに、素直に喜べないのは、同情、なのだろうか。 北斗杯の予選が始まる前、プライベートで彼と対局すると、ボクは負けることが多くなってしまっていた。 こんなことを彼に言ったら軽蔑されるどころじゃすまないだろうから絶対に言えないが、彼を好きだと自覚してから、心のどこかにある彼への甘さが、石に出てしまっていたと思う。 ボクに勝ったと喜ぶキミが見たい、そんなバカみたいな理由。 もちろんワザと負けたことなんかないけれど、勝つための執念とか、気迫、そういうメンタルな強さを発揮出来ないと勝てないくらい拮抗してきたボクたちの間では、そんな思いは致命的だった。 『オレは、今年こそ実力で大将になって、絶対高永夏を倒したいんだ!』 碁会所で彼がそう宣言した時、心が冷水を浴びたように痛んだ。 その彼の言葉は、今、彼の中ではボクよりも高永夏の強さが上であることを示していたから。 この一年、進藤は高永夏を意識し続けていた。 対局させてあげたいという気持ちはもちろんあった。 でも、「北斗杯」「高永夏」、これらの単語を彼の口から聞くたびに、彼の気持ちがそちらへ強く向かっていってしまいそうで、不安だった。 このままでは、彼のあの前へ向かう強い眼差しは、ボクのことなど通りこして、高永夏へ、さらなる高みへ、遠くへ行ってしまいそうで。 彼がボクを「好きだ」と言ってくれるその気持ちは、ボク自身というよりボクの碁の方がウエイトが高いと、哀しいかな自覚はあった。 このまま彼に勝つことが出来なくなったら。 碁以外に、ボクには彼をボクの元に引きとめておけるものなんか、ないんだ。 勝たなければ。 時には恨まれようと。 そう、今みたいに、時には彼の望みを打ち砕いてでも、勝たなければ。 それでも好きで。 それでも彼をボクのものにしたくて。 そんなボクの想いは、もしかしたら彼を幸せにしてあげられるものじゃないのかもしれないけれど。 「倉田さん、全戦大将は塔矢ですか? たとえば勝つために捨て大将とか、そういう手もありますよね?」 重い沈黙を破ってそう問いたのは越智だった。 「強いヤツを先鋒とかに持ってきて確実に勝ち星を狙う手か? それも考えないこともないけど・・・去年の様子とか見ていても、 やっぱり若手の試合だし、変にいやらしい作戦は考えない方が 印象もいいんだよな〜。ああいう国際試合ってわりと お祭り要素が強いし。ただ勝てばいいってもんでもないだろう」 「でも、去年みたいにチームとして全敗というのは避けたいですよね」 「悪かったな、全敗で」 社が口を挟む。 「ま、とにかく一戦目は今の対局の結果どおりでいくぞ。 他の二戦は様子を見て、考える」 「まあ、たしかにちょっと見たいけどな。進藤対高永夏」 和谷の言葉に、碁盤を見つめたままだった進藤が微かに反応したのがわかった。 「だ〜か〜ら!団体戦なんだからそういう私情は持ち込むな!」 「去年私情で大将を進藤にしたの誰でしたっけ?」 越智の冷静な一言に、倉田さんが言葉に詰まる。 「とにかく!一戦目の相手がどこになるかわからないけど、大将は塔矢! 副将進藤で次が社、越智、和谷、これで決定!はい、今日はこれで解散!」 そう言って立ち上がる倉田さん。 つられるように進藤以外の三人も立ち上がる。 「おい進藤?今日は社とオレんち泊まるんじゃねェの?」 和谷さんが声をかけると、ようやく進藤は顔を上げる。 「・・・わりぃ、後で連絡入れるから先に行って」 「・・・おぅ。じゃ、行くか、社」 「はい。・・・塔矢、二日間世話んなったな。ほな、会場でな」 「ああ。大会、頑張ろう。倉田さん、またよろしくお願いします」 「うん。塔矢も、進藤のことよろしくな」 「え?」 「進藤、明日は気持ち切り替えて会場入りしろよ」 そう言って軽く進藤の頭を小突くと、倉田さんは他の皆を促して部屋を出て行った。 玄関まで見送って部屋に戻り、また碁盤を挟んで進藤の前に腰を下ろした。 「・・・進藤?」 「・・・うん、ごめん。なァ、今日もここに泊まってっていい?」 「え?・・・いいけど・・・夜には両親が帰ってくるよ?」 両親が台湾に行ってしまっていたので、またボクの家で二日間はメンバー五人で合宿をしていたが、今日は両親が帰ってくることもあって、進藤と社と和谷さんは和谷さんの部屋へ、越智は自宅に帰ることになっていた。 「・・・うん、塔矢先生に、会いたいんだ」 思いもかけない言葉だった。 「・・・父に?」 「・・・うん、話したいことがあって」 「・・・そう」 その思いつめたような顔を見て、ああ、saiの話かもしれない、と思った。 父は頑なに口を閉ざして、saiのことを話さない。 でも、それが逆に進藤との関わりを思い起こさせた。 「塔矢」 「何?」 「オマエは・・・強いな」 「・・・キミがいるからね」 「え?」 「いつも、キミより強くありたいと思っている。だから、高みを目指して進める」 「・・・塔矢、何で、オレなんだ?」 不意に、予期せぬ質問をされた。 「え?」 「・・・オレ、オマエに全然勝てないし。・・・考えてみたら、ここぞって時、 一度も勝ってないよな。・・・こんなんで、ホントにオマエのライバルなんて 言えるのかな。・・・こんなオレの、どこがいいんだ?」 「まあ、少なくとも顔とか性格を好きになったわけじゃない、かな?」 あまりにも深刻そうな様子に、ちょっと茶化すように答えてみせる。 「わ、わかってらい!そんなこと」 「嘘だよ。本当はそんな風に喜怒哀楽の激しい顔も好きだし、 相変わらず子供っぽい性格も可愛くて好きだよ」 「かっかわ・・・?!バ、バカ言ってんなよ! 真面目に聞いてるんだからちゃんと答えろ!」 真っ赤になった。そういうところが、最近可愛くてしょうがないんだけど。 「キミはボクの生涯のライバルだよ。 キミに、ボクがこんなにも勝ちたいと思うのがその証拠だ。 キミだけが特別だ。キミだけが、こんなにもボクの力を引き出してくれる だから、好きだよ」 「・・・そんな、うまいこといって」 「本心だ。今、キミに負けたりしたら、キミを高永夏に奪われそうだからね」 「!?は!?なんで高永夏!?」 「高永夏は強いから、キミの関心がそっちに行きそうで。 キミこそ、碁の強いボクが好きなんじゃないのか? キミに負け続けたら、さっさと愛想つかされそうだからね」 「そ、そんなこと・・・ねェよ」 「じゃあ、キミは碁以外のボクのどこを好きになってくれた?」 「うっ・・・」 答えに窮された。わかっていたけれどそれはそれで傷付くんだが・・・。 「オレは・・・」 あれ、答えてくれるのかな? 「オレは、オマエの・・・目が好き」 「・・・目?」 「・・・うん。オレのこと、真っ直ぐ見つめてくれる目。 囲碁部の頃、オマエ、大会で弱い碁を打ったオレに、 「もうキミの前には現れない」って背を向けたことあっただろ? オレ、あの時・・・ほんと、ショックで。もう一度、オレを見てもらう、 それだけのためにプロになったんだ」 「進藤・・・」 「だから、オマエにちゃんとライバルって思ってもらえるくらい強くなりたい。 オマエに勝てるようになって、高永夏にも勝って、 北斗杯の予選なんかやらなくてもすむような皆に認めてもらえる強さを手に入れて もう二度と、オマエに背を向けられたりしないように」 「・・・無理だよ」 「え?」 「もう、キミから目をそらすことなんか、無理だ」 泣きそうな顔を、された。 それが、嬉しさのためだとわかって、胸が熱くなった。 立ち上がって、進藤の隣りに座り、抱き寄せた。 「初めてキミと打った時から、もう、キミなしではいられなくなってるよ」 抱いた肩が、一瞬震えた。 それにどんな意味があったのか、この時のボクは知る由もなかった。 小さく「うん」と頷いてボクの胸に顔を埋めた進藤を抱き締めていたこの時は、ただ、幸せだった。 |
◆Hikaru-Side◆ 台湾から帰ってきた塔矢先生たちに挨拶をして泊まることの了承を得て、台湾土産の混ざった夕飯をごちそうになって一息ついた頃、塔矢先生に対局に誘われた。 塔矢先生と二人で話したかったけど、旅行帰りで疲れているだろうから、今日は無理かも、と思っていたから渡りに船だった。 塔矢のお母さん―最近は他の門下生と同じように「明子さん」と呼んでいる―に「アナタったら、進藤君はアキラさんのお客様ですよ」と笑われた。笑う時も上品なんだよなー明子さん。優しく笑った顔なんか、塔矢そっくりで、たまにドキッとしちゃうのは内緒だ。 「対局を見学させてもらってもいいだろうか?」 当然のことながら、塔矢にそう言われたけれど。 「・・・ごめん、悪いけど、先生と二人きりで打たせて」 オレの言葉に、塔矢は「わかった」と思ったよりあっさり引き下がった。 ・・・もしかしたら、そう言われることを予想していたのかもしれない。 そんなオレたちに対して、塔矢先生は「では、行こうか」とだけ言って立ち上がった。 「また、強くなったな」 六目半で負けた碁を、そう、塔矢先生は評価してくれた。 自分でも、上手く打てたと思った。 「キミと打つのは3度目だったかな」 盤上から顔を上げて塔矢先生を見たら、予期せぬ厳しさで見つめられていて、心臓が、跳ねた。 「初めてあった碁会所では、キミは突然逃げ出した」 苦笑交じりに言われてオレも苦笑する。 「二度目は新初段の対局。あの時、キミは、何かを試していたね」 そう、あの時は、佐為が打った。自らハンデを負うという条件を付けて。 「そして今日だ。私は、やっと、キミ自身の本当の実力を知ることが 出来ると思ったんだがね」 ああ、やっぱり、と思った。 塔矢先生は何もかもお見通しだ。 碁を打てば、相手の全てがわかるんだ、この人は。 「・・・すみません」 「saiと打たせたつもりだったとしたら、まだまだだったな」 「え!?いや、えっと、そこまではさすがに。でも・・・そう、です、saiなら、 どう打つかなって、ずっと考えながら打ちました」 「ふむ・・・」 「saiにはまだまだ全然及ばないってことは、オレが一番良くわかってます」 「全然、ということはないよ。キミの碁は、確かにsaiを彷彿とさせるものがある。 いずれは、並ぶことさえ叶うかもしれないという気にもさせられる」 「・・・・・・」 「進藤君」 「・・・はい」 「saiは・・・亡くなったのかね?」 「っ・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・そうか」 「塔矢先生・・・」 「・・・そうではないかという気はしていた。 そうか、あれほどの打ち手が、失われたか・・・」 塔矢先生は、そう言って、よく手入れされた庭へと目を移した。 オレが、塔矢アキラという存在を求めたように、佐為は、この人を求めていたんだろう。 そして、塔矢先生も、佐為を。 オレには、塔矢がいる。今も、そばに。 塔矢先生には、もう、いないんだ。 オレが、奪った。 それを、ずっと、ずっと、この人に伝えなきゃいけないって思ってた。 saiとの再戦を望んでいるという噂を耳にするたびに、この人にだけは、真実を教えなきゃいけないって。 それなのにオレはずっと、逃げていた。 いつの日か、オレが佐為みたいに強くなれば、saiの代わりになれるかもって。 でもダメだった。今日、塔矢に負けてよくわかった。 オレはまだこんなにも弱くて。 アイツの代わりになれる日なんか、こないかもしれないのに。 オレのエゴで、いつまでもこの人を待たせてはいけないんだ。 だから、謝りたかった。 責めて欲しかったのかもしれない。 オマエのせいで、saiは失われたんだ、と。 それなのに、その横顔は、全てを受け入れたように静かで。 気付いたら、涙が零れていた。 拭っても、拭っても、溢れてきた。 オレには、泣く資格なんかないのに。 止まれ、止まってくれ。 なんで泣くんだ、泣いたら、哀しみも一緒に流れてしまう。 オレの罪は、まだ、許されてはいけないんだ。 だから、泣いたら、ダメなんだ。 なのに、止まらない。 どうしてオレは、こんなに弱いんだろう。 そんなオレを許すかのように、静かに外を見る塔矢先生の凛とした横顔。 この人は、強い。 ああ、塔矢は、この人の血を受け継いでいるんだ。 どんなにか、落胆しただろう。 今、どんなにか哀しいだろう。 それなのに、それ以上何も訊こうとしないこの人に、オレは、堰を切ったように全てを話してしまった。 まるで、懺悔のように。 佐為との出会い、佐為との別れ。 普通に聞いたらとても信じられないようなオレの話を、塔矢先生はずっと黙って聞いていた。 そして最後に、 「話してくれて、ありがとう」 と言った。 |
◆Akira-Side◆ 「塔矢?入っていい?」 ノックと一緒に声がした。「どうぞ」と答えるとすぐに進藤が入ってくる。 「あ、布団、オレの分もある」 机に座って本を読んでいたボクの横を通り過ぎ、敷かれていた二組の布団に近付いていく。 「北斗杯前だし、落ち着いて寝られるよう客間が良かったか?」 「明日はどうせレセプションだけじゃん。なあ、オマエの布団、どっち?」 「左だよ。掛け布団が青い方。そうだね、もう今日は寝ようか」 机の電気を消し、部屋の電気も小さい明かり一つにして布団の方を見ると。 「進藤!そっちはボクの布団だってば」 説明したはずなのに、ボクの布団に入り込んでいる。 「わかってるって!なあ、一緒に寝よ?」 そう言いながらボクが入れるよう掛け布団をめくる。 「せ、狭いだろ」 「いいじゃんか〜。・・・オレと寝るの、いや?」 ・・・一体なんなんだ。何かの試練か罰ゲームかこれは。真面目に言っているのか進藤は。暗がりの中に見える表情は、でも、誘っているというよりは、子供のわがまま、おねだり。 ボクは小さくため息をついて、彼の隣りに入った。 「・・・まったく・・・ゆっくり寝られないじゃないか、これじゃ」 せいぜい悪態をついて自分の衝動を抑えるしかない。と思ったのに、横たわるや否や胸にしがみつかれる。・・・なんだこれは、拷問か? 「・・・大事な手合前に、ごめん」 急に、殊勝な声で呟かれる。 「・・・進藤?」 「・・・塔矢」 「・・・どうした?父と何か、あったのか?」 「・・・あのさ、ギュッて、抱き締めてくんねェ?」 ボクの問いには答えず、俯く。 「・・・いいよ」 腕の中に閉じ込めて、強く抱き締める。 胸に、深く熱い吐息を感じた。 まるで、母親の腕で眠る赤ん坊のように、無防備に安心しきっている彼を見て、いっそ裏切ってやろうかという衝動が一瞬頭を過ぎる。 『好きな人』と同じ布団の中にいる、そんな状況なのに、安全だと思われているなんて、ある意味情けない。 そう、思いながらも、やっぱりこんな不安げな彼を守りたいとも思う。 ボクにしか出来ないことなら。ボクだけが出来ることなら。 ゆっくりと髪を撫でる。自分のものとは全然手触りが違う。そういえば彼はボクの髪を触るのが好きみたいだった。やっぱり、自分と違うって思ってたのかな。 しばらくそうしていたけれど、このまま眠ってしまうのもどうかと思って、思い切って声をかける。 「父との対局、どうだった?」 「ん、ああ、六目半負け。でも、なかなか上手く打てたぜ〜! なんかさ、打ちながら、ああ、塔矢と親子だな〜って思っちゃった。 打ってる時の、空気が似てるよ」 「空気?」 「うん。静かなのに迫力があるところ〜。塔矢先生ってカッコイイよな〜。 オレもあの気迫を身につけて、対局相手をビビらせたいぜ。 オマエも普段優しそうに見えて、打つと怖え怖え」 似ていると言いながら、カッコイイのは父限定なのか? 「・・・キミは・・・見た目と違って落ち着いた碁を打つよね」 「・・・よく言われる。外見と打った印象が違うって」 あれ、反論はなしか。自覚はあったんだな。 「ボクは・・・父と毎日打って育って、あの気迫に負けまいとして、 知らずに身につけたんだろうな。・・・キミがそういう碁を打つのは、誰の影響?」 答えはわかっていた。キミを纏う空気が張り詰めたのを感じて、聞いたことを後悔した。 ・・・お父さんとは、話したのだろうか。saiとのことを。 どうして、ボクではダメなのだろう。 saiと進藤のことを考えると、胸が苦しくなる。 キミの碁の奥に、見え隠れする存在。 キミの中で、きっと、何よりも大切にされている、存在。 「・・・本因坊秀策」 「え?」 「毎日、毎日、秀策の棋譜を並べてるんだ。 ・・・碁を始めた時から、ずっと、秀策の碁ばかり見ていた。 影響というより、もう、オレの一部になってるかも。 いや、まだまだだけどさ・・・オレの一部に、なってるといいな、ってくらいかな」 「・・・秀策?・・・saiじゃ、ないのか?」 「!・・・」 「あ・・・いや、ごめん、無理に聞くつもりはない。・・・本当は、聞きたいけど・・・。 ・・・いつか、話してくれるんだろ?」 「・・・佐為のこと、知りたい?」 「!知りたい!」 彼を抱きしめていた腕に思わず力が入ってしまい、腕の中で彼が小さく呻く。 「ご、ごめん・・・」 「正直なヤツ」 笑ったような気配があって、ほっとした。 「じゃあ、ちょっとだけ、話してやろうかな」 「ほ、本当か!?」 「佐為は、平安時代の幽霊なんだ」 「・・・は?」 「碁が打ちたくて打ちたくて、秀策に取り憑いて碁を打って、すごい碁打ちとして名を馳せるんだけど、秀策が病気で死んじゃってまた打てなくなって、そんでなんでだか今度はオレに取り憑いたんだけど、オレってば佐為に全然打たせてやんなくて・・・だから・・・アイツ、消えちゃった。あんなに打ちたがってたのにオレのせいだ。オマエも、佐為と打ちたがってたのに、ごめんな」 「・・・進藤、何を言って・・・」 「はい!今日はここまで!じゃ、おやすみ」 そう言ってボクの腕から抜け出すと、本来の自分の布団へいってしまった。 ・・・なんだって? 今、なんて言った?saiが、秀策?saiが、幽霊だって?それで、進藤に取り憑いてた? 何の話をしているんだ? ・・・いや待て、そういえば去年の北斗杯の時も進藤はやけに秀策にこだわっていたじゃないか。高永夏に執着するのだってそもそもは高永夏が秀策をけなしたのが原因だった。 そうだ・・・進藤と初めて打った時に感じたあの碁の打ち筋はまさしく・・・・・・。 「秀策が・・・・・・sai・・・」 信じられない話ではある。 だが、嘘と言うにはあまりにも・・・。 「・・・saiは、もう、いないのか?」 今の話の中で、一つだけ疑うことなく真実だと思えたもの。真実だと思いたくなかったもの。 「・・・・・・」 「・・・だから、今日、父と?それを伝える為に?」 「・・・塔矢・・・オマエは、ホントは、オレじゃなくて・・・・・・・・・」 「え?」 「・・・なんでもねェ。もう、寝る、ごめん」 そう言って完全にボクに背を向けたけど、でも、きっとボクと同じように、眠れぬ夜になっただろう。 タクシーの窓から見える空はボクの心の内などまったく関係ないというような青さだった。 会場に着いたタクシーを降りて、空の眩しさに目を細める。 朝早くに大会の準備のために自宅へ戻った進藤は、まだきっと着いていないだろう。 ホテルに入り、受付を終え、部屋に行こうとしたところで声をかけられ振り向くと、韓国の洪秀英、そして、高永夏が、いた。 「久しぶり。今年もこうして会えて嬉しいよ」 洪秀英には日本語で挨拶し、高永夏には軽く会釈だけする。 去年、洪秀英は北斗杯後に碁会所で進藤と対戦した。 以前、日本に滞在中に進藤と対局して負けたことをきっかけに日本語を覚えたらしいから、そうとう進藤に関心があるのだろう。去年は北斗杯では対局出来なかったが、今年は彼の望みは叶うだろうか。 でも、進藤が望んでいるのは。 隣にいる長身の男に目をやる。相変わらず(どこかの誰かさんのように)白い服を纏い、涼し気にボクを見下ろしている。一瞬、無意識に睨んでしまったかもしれない。片眉と口の端が上がった笑みを返される。 『今年はボクと貴方が対局することになるかもしれませんね。 その時はよろしくお願いします』 高永夏に韓国語で話しかける。高永夏は、ボクの言葉にその笑みのまま 『進藤は?』 と言った。 『・・・進藤と対局したいですか?』 『・・・どうかな?オレは強いヤツに興味がある。 そういう意味では塔矢アキラ、オマエと対局してみたい』 『・・・光栄です』 『今年は、ボクと進藤が対局するんだ! その為に、副将の座を手に入れたんだから!』 洪秀英が間に割って入ってくる。 『とかいって、去年みたいに進藤が大将になってたりしてな』 『永夏!』 からかわれて怒る洪秀英の頭をポンポンと叩きながら、 『・・・実際、どうなんだ?実力上の大将は、どっちだ?』 と聞いてくる。 『それは、ボクが答えるべき事ではありません。・・・ただ、一つ言えることは、 ボクに勝てたとしても進藤に勝てるわけではない。逆もまた然り、です』 『・・・ふぅん・・・』 先程からずっと絶やさない意味あり気な笑みをたたえて、ボクを見下ろす高永夏を見上げながら、いつの間にか自分の中に闘争心が湧き起こってしまっているのを感じていた。 これは、挑発だ。 飲まれてはいけない。 ふと、その時、視線の端に見慣れた姿が映る。 台湾から客人が来ると、ボクより早く家を出た父が、スーツに身を包んだ子供を連れて歩いている。 向こうもボクらに気付いたのか、こちらへ向かってくる。 「おはよう、アキラ。おや、高永夏君に洪秀英君か。久しぶりだね」 「おはようございます、お父さん」 「ごぶさたしてます、塔矢先生」 「オハヨウゴザイマス」 それぞれに挨拶を交わした後、ボクら三人の視線は自然に父の隣りの人物に移る。 「この子は今年棋士になったばかりで台湾代表に選ばれた、 チェン・ツァイリン君だ。 ツァイリン、息子のアキラだ。こちらは韓国代表の高永夏君と洪秀英君、 初対面かな?」 年はボクよりは下だろうか。 細身のパンツスーツ姿は一見少年のようだったが、後ろで軽く一つに結われた綺麗な長い黒髪に、まるで美しい日本人形のように整った顔立ちの、少女だった。 「はじめまして、チェン・ツァイリンです」 たどたどしい日本語で挨拶される。 「塔矢アキラです。よろしく」 微笑まれると、思わずドキッとするほど綺麗な子だ。 『こんな美人をエスコート出来て羨ましいです、塔矢先生』 「なんだい?高永夏君」 韓国語がわからない父がボクに視線を送る。通訳すべきだろうか。 と、その時、 「佐為!!」 叫ぶような声が、ロビーに響いた。 |
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