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※このお話は小説「ちょこっと勇気」から設定がつながっております。
 未読の方はそちらからどうぞ。









(06.3.16)


『一歩前へ』



◆Akira-Side◆

 はじめて本命からバレンタインにチョコレートをもらった。
 ということは、今年は初めて本命に対するホワイトデーの贈物を用意しなければならない。

 義理チョコへのお返しならクッキーのようなお菓子でも良い。
 もちろん、彼に対してもそれでも良いわけだけど、やっぱり何か区別はしたい。
 クリスマスには棋譜集をあげたけれど、やっぱり毎回囲碁関係ばかりでは・・・なんというか、本当に「碁」だけの間柄になりそうだ。
 そんな風に考えているうちにどんどん3月14日は近付いてくる。
 世間一般の人はどうしているのか・・・と思っても、周りの人―――とくに緒方さんや芦原さん―――には相談出来ない。(相手は誰かと聞かれるに決まっているから)

 などと悩んでいたのだが。

「塔矢塔矢!オレ、ラーメン食いたい!ラーメン!」
「え?」
「ず〜〜っとさあ〜、行きたかったラーメン屋があるんだけど、
 一人でラーメン食うためだけに出かけてもつまらないし・・・。
 だから、一緒にラーメン食いに行こうぜ、オマエのおごりで。
 ちょーどチロルの30倍返しぐらいだし?」

 などと、思いもよらぬリクエストを受けて、3月14日の今日、ボクらは横浜のラーメン屋に来ていた。
 小さくて古い店の中にはホワイトデーの雰囲気のカケラもなかったが、
「やっぱラーメンはとんこつ醤油だよな〜!」
 と美味しそうにラーメンを食べる彼を見ることが出来て、とても嬉しかった。
 「なあなあ、ギョーザも食べていい?」とねだられて、「もちろん。せっかく横浜まで来たんだし、心残りないようにしてくれ」と了承すると、「やっり〜!」と無邪気に喜ばれて、本当に来て良かったと思った。

「あ〜おなかいっぱい〜〜!満足、満足〜〜〜!!」
 ボクも嬉しそうなキミを見られて満足だ。
 ボク自身はラーメンを久しぶりに食べた。
 家でラーメンが出ることはまずないし(カップラーメンを食べたことがないと言ったら彼にえらく驚かれた)、外食をする時も、ボクをラーメン屋に連れていくのは芦原さんぐらいしかいない。
 だが、別にラーメン自体は嫌いじゃないし、この店も彼が行きたかったと言っていただけあってとても美味しい店だった。
 こんな風に、彼といることで碁以外にも新たな発見があるということが嬉しい。
 閉鎖的だったボクの世界が、少しずつ広がっていく気がする。

「あ、待って、取るなよ」
「?」
 ラーメンを食べるのに邪魔だからと今日はあらかじめ用意してきたゴム紐で縛っていた髪をほどこうとして制された。
「なんか、髪結んでるオマエって新鮮〜。もうちょっとそのままでいろよ」
「・・・あ、ああ、いいけど」
 じゃ、行こうか、とボクらは店を出た。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

◆Hikaru-Side◆

 季節はもう春だけど、外の風はまだちょっと冷たいな。
 オレも塔矢も横浜に来たのは久しぶりだったから、中華街(ここでもオレはいろいろ食べた。美味かった)や山下公園に行った。
 移動の間に目隠し碁をしたり、先日韓国で行われた高永夏が挑んだタイトル戦の棋譜について話したり、やっぱ話題は碁のことが多かったけど、それでも・・・なんか、いつもと違うなあ・・・デ、デートっぽい・・・っつーか・・・。いや、どこらへんがって言われてもわかんねェけど・・・。

 気付いたら辺りが暗くなるような時間になってて驚いた。時間がたつのって早いなァ。
「さて、そろそろ帰るか?」
 そう言いながらもホントはもっといたいけど仕方がない。
 また、いつでも来れるしな。
「あ・・・そうだな」
「ん?どーした?ボーっとしてないか?」
 疲れたのかな?塔矢ってあんまり出かけたりしなそうだもんなァ。
「・・・いや・・・今日一日あっという間だったなあ・・・って」
 この横浜の景色を目に焼き付けているかのように、遠くを見つめる塔矢。
「また、来ようぜ」
「・・・そうだな」
 ・・・うわ、オレ、塔矢の普段オレに見せないこういう笑顔に弱いんだよなあ。
 夕日に照らされて、綺麗だなって、思った。
 そう、最近よく思うんだ、塔矢って綺麗だなあって。
 綺麗で、真っ直ぐで、強い。
 不意に触れたくなって、無意識に右手が動く。
 頬に触れかけて、ふと塔矢の首筋に目がいった。
 「取るなよ」とねだって結んだままにしてもらった髪に、普段は隠されているそこにそっと触れた。
 指先に伝わるひんやりとした温度。塔矢の肩が、ビクッと揺れた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

◆Akira-Side◆

「冷たくなってる。・・・ワリィ、寒かったか?」
「・・・いや、大丈夫だ」
 答えながらも、彼の手から伝わってくる熱さに眩暈がしそうだった。
「なんか・・・普段見えないところだからさあ・・・うなじって。
 ・・・その、
 色っぽいっつーか、ちょっとドキドキした」
 そう言って、はにかむように笑った彼は、ボクの髪をすくようにしてゴム紐を取る。
 ボクの髪に触れる、彼の指。
 「はい」と指にひっかけたゴム紐を差し出され、ボクは無言で受け取った。

 こんな些細なことに心が奪われて言葉も出ないなんて。

「すっげー、痕もついてないじゃん。オマエに似て頑固に真っ直ぐだなー」
 と笑う彼に、たいした言葉も言い返せなかった。
 いかなる時も精神的に動揺しないような訓練はしているつもりなのに、彼の前ではまったく役に立たない。情けない気がしたけれど、それでも良いと思えた。



 せっかくの初デート(?)だったので、彼の最寄駅で一緒に降りて、「家まで送る」と申し出ると彼は不思議そうな顔をしたけれど、「じゃあ、今日オレんち覚えて今度遊びに来いよ、いつもオマエんちばっかりだしな」と了承してくれた。
「駅からそんなに遠くないぜ。オレ、いつも歩いて通ってるし」
 たしかにその言葉どおり彼は歩くことに慣れているらしく、一日中歩いていたのに今も歩調は早い。
 逆にボクは今日だけで一ヶ月分ぐらいは歩いた気がする・・・情けない。
 これからはもっといろいろなところを一緒に歩きたいと思った。

「ここ、オレんち」
 10分しないうちに彼の家にたどり着いた。
 ・・・ここが、彼の生まれ育った家か。今歩いて来た町並みや道、すべてが彼と共に過ごしてきたものなんだ。ボクの知らなかった彼の世界を急に身近に感じた。
 今は見慣れないこの景色も、いつの日かここにいなくても鮮明に思い出せる景色になるのだろうか。
「塔矢?」
 ボクがボーっとしているように見えたのだろう、彼が顔をのぞき込んでくる。

 ああ、キスしたいな、と思った。
 彼の家の前でそんなバカな考えを振り払うべく、
「じゃあ、今日はこれで。とても、楽しかった」
 それだけ言って、彼の言葉も待たずに踵を返す。
 まるで、逃げているみたいだ。・・・事実、逃げ出さなければ自分の気持ちを抑えられそうになかった。
 それなのに。
「おい待てよ、せっかくだからちょっと寄ってけよ」
 と、腕を掴まれた。
「まだ時間平気だろ?あ、それともオマエんちって門限厳しかったりするのか?」
「・・・いや、門限なんてないよ。それに、両親とも今は中国だし」
「じゃ、入れよ」
 掴まれたままの腕。
 いや、掴まれたのは心かもしれない。
「・・・うん」
 ボクは彼に気付かれないように深呼吸する。
 不思議だ、ボクの家に彼が来ることなんてしょっちゅうなのに、それが逆になっただけでなぜこんなに緊張するのだろう。

「たっだいまー」
「ヒカル、遅かったわね。今ちょうど帰るって話してたところだったのよ、
 間に合ってよかった・・・あら?あらまあ塔矢くん?」
 奥から顔を出したのは彼の母親だろう。
「はじめまして、塔矢です。すみません突然こんな時間に。
 少しお邪魔させていただきます」
 ボクは軽く会釈し挨拶した。
「あらあらあら、はじめまして。いつもヒカルがお世話になってます」
「はぁ〜?なんでだよ、別に世話になってねェって」
「あらだっていつも塔矢くんの碁会所に行ってるんでしょう?
 それに塔矢くんってヒカルと違ってしっかりしてそうだし、
 いろいろ助けてもらってるんじゃないの?」
「んなこたァねェって!
 塔矢、お母さんに挨拶なんかいいからオレの部屋行こうぜ」
「あ、ちょっと待ちなさい、今ちょうど」
 そう呼び止めた声にかぶる別の声。
「おかえりヒカル。塔矢くん、こんばんは」
 奥の部屋から顔を出した彼女の長い髪が揺れるのが見えた。



 心臓が、止まるかと思った。
 どうして、
 どうしてボクは今まで彼女の存在を忘れていたのだろう。
 絶対に、忘れてはいけない相手だったのに。



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