※このお話は小説「面影を追いかけてる」から設定がつながっております。
 未読の方はそちらからどうぞ。





(10.10.23)


『ループ』




「あれ?えっと・・・あかり・・・ちゃん?」
「あ・・・和谷さん!お久しぶりです!」
 小腹が空いたと入ったファストフード店で、シェイクらしきものを片手に詰碁の本を読んでいる制服の女子高生に興味を惹かれ、それとなく覗き見た顔は、去年の夏に冴木さんの車で海に出かけた時に、進藤ヒカルが連れてきた女の子だった。
「詰碁やってるんだ?」
「は、はい、簡単なヤツですけど・・・」
 あかりは恥ずかしそうにその本を閉じる。
「え〜と・・・ここ、座っていいかな?」
「は、はい、どうぞ!」
 和谷のトレーが置けるように慌ててテーブルを片付ける。
「あかりちゃん・・・と、悪ィ、進藤が名前で呼んでたから、苗字忘れちゃって」
 突如、一度会っただけの女の子を名前に「ちゃん」付けで呼んでいることに気恥ずかしさを覚えてしまう和谷である。院生仲間の奈瀬や、女性棋士の知り合いがいないこともないが、学校に行かない今、同年代の女子と知り合う機会はあまりにも少ないのが哀しき現実だ。
「藤崎です。藤崎あかり。あの、でも皆にも名前で呼ばれることが多いんで、
 そのままで良いですよ?」
「そう?じゃ、あかりちゃん、囲碁部なんだっけ?」
 今さら言い直すのもおかしい気がして、お言葉に甘えることにする。
「はい。今日やっと中間テストが終わったんですけど、部活はまだ休みなんで」
「中間テストか〜懐かしい響きだなあ〜。オレ、高校受ける気はなかったけど、
 親が「プロ試験受かるまでは!」って勉強にはうるさかったからなァ。
 森下先生にも勉強はちゃんとやれって言われてたし。
 でも進藤、アイツは成績悪かっただろ?」
 森下先生にテストの結果を聞かれても頑なに教えなかったヒカルを思い出して笑ってしまう。
「アイツ、碁はあんなに覚えが良いのに、それ以外のことはからっきしだもんなァ?」
 時計係の仕事だって覚えさせるのには相当苦労した。
 陰口というわけではもちろんない。あかりも笑って答える。
「ヒカルの成績のことは、中学の先生もあきらめてましたもん」
「プロ棋士になれて、ホント良かったよな」
「・・・そうですね」
 そう言ったあかりの笑顔にどことなく違和感を感じる。
「最近、進藤に会ってる?」
「え?・・・いえ・・・」
 案の定、表情を暗くして俯いてしまう。
「ったくアイツ、こんな可愛い彼女ほっといて何やってんだか」
「か、彼女じゃないです、私」
「ただの幼なじみって?でも、あかりちゃんはアイツのこと好きなんだろ?」
 ズバリ聞いてしまう。
 北斗杯でチェン・ツァイリンにフラフラしているようにも見えたヒカルだが、それもどうやら誤解だったようだ。
 それならこの幼なじみをもっと大事にしてあげれば良いではないか。
 こんなに健気で可愛い女の子に好かれていながらアイツは何をやっているのだ。
 人事ではあるが、なぜか昔からヒカルの面倒をなんだかんだと見ずにはいられない和谷である。
「わ、私・・・!」
 あかりは真っ赤になって首を振り、気まずそうに和谷を見る。
(わかり易いなあ・・・)
 それに、やっぱり可愛い、進藤にはもったいなさすぎる、と和谷は思う。
「・・・はぁ〜〜〜ダメだなァ〜〜私。ちょっとしか会ったことない人にも
 すぐバレちゃう。塔矢君にも言われたし」
「は?塔矢?」
「塔矢アキラ君。一、二度しか会ったことないのに、
 ヒカルのこと好きでしょう?って当てられちゃいました。
 ヒカルは全っ然気付いてくれなかったのに」
 首をすくめて苦笑する。
「へェ・・・塔矢がそういう話をするなんて、すっげェ意外」
「そうなんですか?真剣に話聞いてくれて、アドバイスとかもくれましたけど」
「アイツがァ!?はぁ・・・で、アドバイスは役に立ったの?」
「えっと・・・そうですね、結果的には・・・」
「おっなんだ、彼女じゃないって言いながら進藤とちょっとは進展したんだ?」
「・・・いいえ。・・・振られちゃいました!」
「・・・え?」
 努めて明るく言うあかりに、悪いことを聞いたなと思いつつも、詳細が気になって仕方がない。
「振られた?告白したんだ?でもなんでアイツ断ったりしたんだ?」
「その・・・他に好きな人がいるからって・・・」
「アイツに好きな人ォ!?」
 チェン・ツァイリンじゃない、よな?好きな人なんて・・・誰だ?最近のアイツの交友係なんてだいたい把握してると思ってたのに。そんな素振りあったか?
 和谷は思わず腕を組み、考え込む。
「和谷さん、知らないんですか?」
「え、何、オレが知ってそうな人なわけ?」
「あ・・・えっと、すみません、しゃべりすぎですね、私。
 ヒカルが言ってないなら、私からは言えません」
「んなこといいから!塔矢がアドバイスって・・・塔矢は知ってるってことか?」
「あの、すみません、ホントに私・・・」
「あ・・・いや、ごめん、ムキになっちゃって。
 ただちょっと・・・ってゆーかだいぶ意外だったから・・・」
「いえ、私も中途半端に話してすみませんっ」
 ピョコンと頭を下げられる。
 そこでその話は終わりとなったが、本当は双方が続きを話したくてしょうがない状態ではあった。だがあえて他の話題を探す。
「えっと・・・じゃあさ・・・そうだ、高校の囲碁部ってどんな感じ?
 教えてくれる先生とかいるの?」
「あ、はい、一応顧問の先生はいます。
 でも、腕は私よりちょっと強いくらいだから、ただの趣味って感じです。
 だから大会も毎回初戦負けで。
 せっかく高校に囲碁部があって喜んだのにーって感じでした」
「へえ〜。オレは高校行ってないし中学の時も部活やってなかったからなァ。
 部活動ってちょっと憧れるな」
「ホントですか?じゃあ、指導碁に来てくれませんか!?
 実は和谷さんのこと、この間の北斗杯見て部活の皆がカッコイイって言ってたんです!
 和谷さんが来てくれるなら皆喜ぶと思うんです!」
「え、ええ!?オレ!?」
「はい!今年の北斗杯はイケメンが多いって話題で」
 「多い」ってことは別に自分が特筆して話題になったわけじゃないな、と和谷は内心思ったが、気にしないことにした。
「高校に指導碁かァ・・・」
「あ・・・すみません、プロ棋士の方に簡単にそんなこと言って。
 あの、少ないですけど謝礼も払えると思います」
「謝礼なんてそんなのはいいんだけど・・・」
 必死な様子のあかりの和谷は迷った末に答える。
「わかった!オレでいいなら行くよ」
「ホントですか!?ありがとうございます!皆喜びます!」
 内心を言えば、今日はさすがにこれ以上ヒカルのことを聞けないけれど、もうちょっと打ち解けたらもっと聞けるだろう、という思惑があったりもしたが。

 それに・・・このヒカルの可愛い幼なじみとまた会えるのも、悪くない。


◆    ◆    ◆    ◆


「よっしゃ三連勝!今度飯食う時、オマエの奢りな!」
「賭け碁をした覚えはないんだが・・・」
「カタいこと言うなって〜さってと、もう遅くなっちゃったな。そろそろ帰るか」
 そう言いながらヒカルは早々と石を片付けている。
 仕方なくアキラも碁笥に石を入れる。
 それにしても。
(三連敗か・・・)
 プライベートな対局とは言え、連敗することはあまりないアキラは心の中でため息をつく。
 ヒカルには悪いが、彼が強くなったというよりは、自分が集中出来ていないことが敗因なのはわかっていた。
 北斗杯が終わって三週間。
 チェン・ツァイリンが滞在していた一週間は、それこそ毎日のようにヒカルが塔矢家にやって来て、行洋も含めて四人で対局三昧だった。
 先週からは若獅子戦、そして各棋戦の予選も始まって忙しく、棋院で会うことは多くてもプライベートでこうして碁会所でゆっくり会うのは久しぶりだった。
(どうせならボクの家で二人っきりになりたかったけど)
 両親が韓国に行っていて不在の家に、それとなく誘ってみたが、なんだかんだとはぐらかされて結局いつもの碁会所に来てしまっている。
 北斗杯のホテルで、アキラとの今後の関係を「ちゃんと考える」と言ったヒカルだが、今のところまったくそんな素振りはない。
 それどころかあれ以来キスの一つもしていないのだ。
 今日こそは。今日こそはこんな状況を少しでも進展させなければ。
 と、そんなことばかり考えているから負けるのである。
 今度の若獅子戦、順調に勝ち進めば決勝はヒカルと当たる。
 こんな碁を公式戦でも打って負けてしまってはヒカルに愛想尽かされてしまう。
 でも。
 だが。
 しかし。
「おい塔矢、何難しい顔してんだよ」
「え?」
「ここにシワ寄ってるし!」
 そう言って眉間を指で突かれる。
 触れられた。
 こんな些細なことで心が跳ねる。
 ここが碁会所じゃなかったら、どうしてしまうかわからない。
 そんなアキラの気持ちを知ってか知らずか、ヒカルは「どうした?」と無言のアキラを見つめてくる。
「・・・少しは、考えてくれた?」
「え?」
 きょとんとした表情を見せたヒカルだが、アキラの表情から何のことか読み取ったのだろう。顔を赤くして目をそらした。
 そんなヒカルの反応に、忘れてしまっているわけではないんだな、とため息をつく。
 どうすれば、この状況から一歩進めるのだろうか。
 碁石を片付ける音がやけに大きく響く。
 今日は邪魔されずに対局をするために奥の席に座ったため、話し声が聞こえる範囲に人はいないが、かえって沈黙が気まずい。

(こんな場所で、なんて返事すりゃいいんだ)
 ヒカルは、市河が入れてくれたミルクのたっぷり入ったすっかり冷めてしまっているコーヒーを口にする。
 それは微かに苦くて、無意識に眉をひそめてしまう。
 アキラの気持ちはわからないでもない。
 だが、正直に言って、いまだにまったく塔矢アキラと「そういう関係」になるという実感はない。
 久々に対局して三連勝。だが、一勝した時にはもうアキラが本調子でないことには気付いていた。その理由もわかってしまって、はっきり言って情けない、と思った。
 だがそれはアキラ自身が一番感じていたことだろう。
(どーすりゃいいかなー・・・)
 アキラのためにも願いを叶えてやるべきか。
 それとも、こんな情けない様をなんとかするまではあえて拒否し続けるべきか。
 いや、それ以前に。
(オレがどうしたいのかさっぱりわかんねェ!)
 嫌なのか、そうでないのか、自分の中ではっきりしていなかった。
 だいたい、したことがないのだ。
 良いも嫌もよくわからない。
(塔矢はなんでそんなにしたいのかなぁ・・・・もしかして、すでに経験あったり!?
 いや、んなわけねェよな・・・。でも、したことないことしたがる意味がわかんねェ!
 あ、でもそしたら皆最初はしたことないんだもんなぁ。
 わっかんねェ、どうしたらしたくなるのかなぁ・・・)
 要するに、自分はまだ子供なのだ、と素直に自覚してしまう。
 今年十七歳になる。
 最近の風潮では極端に早いわけではないだろうけど、これが男女のことだったら何かあったところで法的には結婚出来ない年齢だ。
 碁で金銭的には自立しているとはいえ、十八歳になるまでは小遣い制と親から決められているし、生活的にはまったく自立していない。
 まだまだ自分は子供だ、という思いがある。
 それに、同世代と比べても自分は奥手というか、疎いということは自覚していた。
(・・・ああ、そうか。塔矢はある意味もう自立してるんだもんな)
 両親が不在なことが多いあの家では、アキラはもう一人立ちしていると言っても差しつかえないだろう。
 意外と子供っぽいところも多いけれど、自分よりは遥かにアキラの方が「大人」だ。
 だから、だろうか。
「何?」
 いつの間にかアキラを見つめていたらしい。
 問われてヒカルは我にかえる。
「なぁ・・・オレが、どーしても、絶対やだって言った場合、どーすんの?」
「どうって・・・」
「だって、オレ、ホント正直よくわかんねェ。なんでオマエがそんなに・・・したいのか」
「もっとキミを知りたいんだ」
「他にもっと知らないこと、あるだろが」
 プライベートな付き合いは以前よりはあるが、碁と関係があること以外はほとんど知らないに等しいのだ。
「ボクしか知ることが出来ないキミを知りたいんだよ」
 言われた意味を考えて、ヒカルは再度赤くなる。
「なぁ・・・やり方って知ってるの?」
「・・・調べた」
「どーやって」
「・・・ネットで」
「・・・あっそ」
 そんなサイトが存在するとは。
 そしてそれをアキラが見ているとは。
 自分も、知れば興味が湧いてくるだろうか。
 しかしヒカルは家にインターネット環境がない。
 いまだに携帯も持っていないから情報を調べるすべがない。
「・・・今度、ボクの家で見るか?」
「い、いや、いい」
 慌ててヒカルは首を振る。そんなサイトを一緒に見るなんて冗談じゃない。
「オマエさぁ、そんなことばっか考えてるから、今日オレに三連敗してんじゃねェの?
 いい加減にしねェと見損なうぜ」
「・・・わかってるよ」
 眉をひそめて頷かれた。
 やっぱりそれが原因だったのか、とヒカルは内心呆れてしまったが、それもアキラらしいか、とも思ってしまう。
 それに、ちゃんと考えるとアキラに言ったのは自分だ。
 責任の一端はある。
(どーすっかなァ・・・)
 それ以上何も言ってこない、思いつめたような顔のアキラを見ながら、ヒカルはこっそりため息を付いた。


◆    ◆    ◆    ◆


(へ〜、最近は個室なんだ。良かった・・・)
 以前ネット碁を打った三谷の姉がバイトをしていたネットカフェは、喫茶店のようにオープンな席だったが、駅前のその店は個室に区切られていた。
 和谷の部屋で少し触らせてもらうことがあるとはいえ、パソコンはまだまだ苦手である。
 慣れないマウス操作でブラウザを開くところまではやってみたものの、何と調べればいいのか迷っていた。
(あ〜〜〜なんか、後ろから誰かに見られてる気分っ!
 絶対知られなくないよなぁ、こんなこと調べてるの・・・)
 店の人に何見てるのかバレたりしないだろうか、など、初心者のヒカルはいろんなことが心配だった。
 なんとなく踏ん切りがつかず、ふと思いついて「高永夏」を検索してみる。
 ちょうど棋院で高永夏が韓国のタイトル戦で三勝目を上げてタイトルに王手をかけたという話を聞いたばかりだった。
(うわ、いっぱい出てきた)
 そこに表示されたのは、碁に関するニュースの他、ヒカルが知らない(とくに知りたくもない)高永夏の生年月日やらのプロフィールの詳細などなど、タイトルと概要を見ただけでもいろいろな個人情報が丸わかり状態だった。
 そんな一覧の中に
『韓国の囲碁棋士、高永夏をこよなく愛するファンサイトです。サイト傾向はヨンアキです。』
 という概要の日本語のサイトがあるのが目に入った。
(なんだこれ、ファンサイト?)
 秀英が「永夏はアイドル雑誌にも載っていて日本でも人気がある」と話していたのを思い出す。
 興味をひかれてクリックしてみると、いかにもアイドルのグラビアのような囲碁とはまったく関係のない姿の高永夏の写真が飾られたページが開いた。
(うげー・・・すげェな・・・)
 こんな写真を飾っているファンが果たして囲碁のことなど知っているのだろうか。
 さらに内容を見てみると、「NOVEL」というコンテンツを発見した。
(ノベル?小説?高永夏の?)
 とりあえずクリックしてみると、そこにはこんな注意書きがあった。

『ここにあるのは全てヨンアキです。ヨンアキに興味のない方、十八歳未満の方はご遠慮下さい』

(ヨンアキ・・・って何?ってゆーか、なんで十八禁??)
 ご遠慮対象の十八歳未満ではあるが、ここまで来て読まないわけにもいかない。
 ヒカルは恐る恐るクリックし、
 ―――――――――数分後、そこがネットカフェだということを忘れ、悲鳴を上げた。


◆    ◆    ◆    ◆


「進藤ってば最近やけに色気出てきたんじゃない?彼女でも出来た?」
 唐突に奈瀬に問われてヒカルは飲んでいたコーラを吹き出す。
 今日は若獅子戦、午後からの準決勝に向けて、ファストフードで昼食のハンバーガーを食べ終わったところへ唐突に話題を振られた。
「ッ・・・ゴホッゲホッ!・・・はぁ!?」
「最近女子の間でちょっと話題なの。進藤がカッコよくなったって」
「え?え?オレ?」
「まあ、カッコイイかは好みの問題もあるとして、たしかに色気は増したかなと思って」
「い、色気って・・・何が、どこが!?」
「表情とか・・・あとなんか、背が伸びてスタイル良くなったよね、
 細身だけどバランスいいし・・・体つきがエロいわ、生意気〜」
「か、体つき・・・って、セクハラオヤジか!!」
 そんなヒカルと奈瀬のやり取りを横で聞きながら、和谷はあらためてヒカルを見る。
 たしかに、最近グッと大人っぽくなったかもしれない。
 前は年齢よりもだいぶ幼く見えたが、最近はふっくらしていた頬もスッキリして、背も伸びた。それによく見るとイケメン・・・というよりは、美人、なのだ。目がパッチリしているし、はっきりした二重で睫毛も長い。向かい合って碁を打っていて、碁盤を見つめる俯き加減のヒカルにドキッとしたことがあるのは秘密だ。
 女の子だったら好みかもしれない、などとちょっと危ない方向に思考が働きだしたので慌てて首を振る。
「何?和谷はそう思わない?」
 首を振る仕草を否定と取られたらしい。
「い、いや、ってゆーかさ、 オマエ、彼女でも出来たのか?
 なんか・・・そんな噂も聞いたけど」
 先日、藤崎あかりから仕入れた情報をそれとなく聞いてみる。
 塔矢アキラも知っているようだし、あかりが振られていることからもヒカルに彼女、もしくは好きな人がいることは事実なのだろう。
「え?なになに、そんな噂があるの?」
 興味津々の奈瀬に対し、ヒカルは顔を真っ赤にして
「な、なんだよそれ!誰だよそんなこと言ってんの!」
 と怒鳴る。本気で否定しているというよりは、慌てているように。これでは図星だと言っているようなものだ。
「へーホントだったんだ。オレ、全然気付かなかった。なぁ、誰?オレ知ってる人?」
 和谷はヒカルの言葉を無視して問う。あかりは自分が知らないことに驚いていたのだから、碁界の人には間違いないとは思うのだが。
「い、いないってそんなの!」
「誤魔化さなくていいじゃん。顔に「いる」って書いてあるぞ」
「書いてない!いない!彼女なんて!」
「でも好きな人はいるんだろ?」
「っ・・・い、いないっ」
「オマエ、嘘付くの下手だなー」
「何よ進藤、教えなさいよ!」
「あ〜〜もう!うるさい!」
 ヒカルは立ち上がってそのまま店を出て行ってしまった。
「ふ〜〜ん、こりゃ、ホントにいるわね、彼女だか好きな人だかが」
 奈瀬はヒカルが出て行ったドアを見ながらニヤリと笑う。
「そうみたいなんだよなあ。しかもどうやら囲碁関係の人みたいなんだ。
 奈瀬も心当たりないか?」
「ないなぁ。ね、どこから聞いたの?その噂」
「・・・まあ、それはちょっと。オレが知らないことに驚いてたから、
 オレが知っててもおかしくない相手みたいだ。
 しかも、塔矢もその相手を知ってると思う」
「塔矢が?」
「なんかそこが気に食わないっつーか」
「塔矢が知ってて和谷が知らない相手か・・・。塔矢門下に女性いたっけ?」
「門下生にはいないと思う。塔矢んとこの碁会所に綺麗な受付の人いるけど
 まさかあの人じゃないだろーし・・・奈瀬の周りにも該当するヤツなんかいないだろ?」
「思い当たらないなぁ、最近進藤と接点のある女の子なんて・・・」
 しばらく考えていた二人だが、ふと和谷の脳裏に嫌な考えが浮かぶ。
「・・・緒方先生に変な遊びとか教えられてないだろうな」
「あ!それあるかも!塔矢が知ってるってことは!」
「それはそれで大丈夫かな・・・」
「でもあんまり変な相手だったら塔矢が止めるんじゃない?
 自分のライバルが変な道に入ったら困るだろうし」
「う〜ん・・・やっぱ不本意だけど塔矢に聞いてみるかなあ」
「聞いて聞いて!私も知りたい!」
 はしゃぐ奈瀬に和谷は眉をひそめる。
「あのなァ、オレは進藤のこと心配してんの!」
「ごめーん。でも何がそんなに心配?」
「アイツ、なんか危なっかしくて・・・」
 それに、やはり気になるのだ。あの藤崎あかりを振ることになるほどの相手がいること。
 それを頑なに隠されていること。
 それは、隠さなければいけない相手かもしれないということだ。
 ただ恥ずかしがっているだけなら良いのだが。
 考え込んでいると、ニヤリと奈瀬が笑う。
「進藤に先を越されるのが嫌なだけだったりして」
「怒るぞ!」


◆    ◆    ◆    ◆


(色気ってなんだよ色気って!しかも誰だよオレに彼女か好きな人がいるとか
 噂してるヤツ!・・・・・・オレ、そんなに態度に出てんのかな)
 若獅子戦の会場に戻り、席に着く。まだ時間は早かったが仕方がない。
 ここで勝てば次は決勝だ。
 そこでふと気付く。
(いけね、塔矢と会わないように昼飯和谷たちと出たのに、戻って来ちゃった)
 周りを見渡すがまだ戻っている人はあまりいない。今日は準々決勝、準決勝のため、そもそも対局する棋士は八人しか来ていない。和谷は準決勝に残っており、次はアキラと対局、奈瀬は見学だった。
(対局開始の直前までどっかに隠れてようかな・・・)
 そう思って席を立とうとした時、
「進藤」
「うわぁ!」
 聞きなれた声に名を呼ばれ、思わず声をあげてしまう。
「そんなに驚くことないだろう!?」
「と、塔矢」
 アキラの顔を見た途端、先日ネットカフェで読んでしまった小説を思い出し、ヒカルの顔は瞬時に赤くなる。
「・・・進藤?」
「いや、その、なんだ、次は和谷とだってな!オレとやるまで負けるなよ!」
「キミこそ、相手は越智だろう?負けたら許さないからな」
「へいへい」
 なんでもない風を装って会話したものの、顔のほてりは取れないままで、ヒカルはアキラから目をそらす。
「・・・キミ、ボクを避けてないか?」
「そ、そんなこたぁねェよ」
「じゃあボクの目を見ろ」
 言われて仕方なく目線を戻す。
 しかし。
(ああっ!ダメだ!思い出しちまう!)
 そう、ヨンアキ小説とは、高永夏の『ヨン』と塔矢アキラの『アキ』で、二人がデキているという設定の創作小説のことだったのである。
 しかも、十八禁。
(高永夏にオマエがあんなことやこんなことされて、
 オマエが高永夏にあんなことを〜〜っっ)
 期せずして、男性同士でどうやるのかも知ってしまったヒカルである。
 アキラが、自分にあんなことを望んでいたことが衝撃だった。
 小説では、アキラが女性の役割だったが、どうやっても高永夏の立場でアキラを襲うという積極的な自分を想像出来なくて、自分がアキラにされる様を思い描いてしまうのである。
 そのアキラが目の前にいる。
 ここは若獅子戦の対局会場だというのに、このまま押し倒されていまいそうな錯覚を覚える。
 自分が耳まで赤くなっていくのがわかる。
 そんなヒカルをいぶかしむように見ていたアキラが、ふと思い至ったように
「もしかして・・・調べた?」
 と図星を突いてきた。
「う、うるさい!オレは対局に集中したいの!邪魔すんな!」
 思わず叫ぶと、周りにいた数人が何事かと二人を見た。
「・・・わかった。負けるなよ」
 あっさりとアキラは引き下がり、自分の席へと向かう。
(くっそ・・・見透かされてるな・・・)
 最後にアキラに会ったあの日、邪なことを考えて負けるなんてと叱咤していた自分が、今度は逆にあの時のアキラのように心乱されている。
(塔矢と決勝やることになったらオレ、平常心で打てるかな・・・ってダメだダメだ!
 それより次の対局だ!)
 ヒカルは自分の両頬を挟むようにバシッと叩いた。
「ずいぶん気合い入ってるね」
 見ると対局相手の越智が、相変わらずの仏頂面で前の椅子に腰掛けるところだった。
「おう、負けねェぞ」
「それはこっちの台詞だ」
 越智の顔を見ていたら、なぜか平常心が戻ってきた。
 とにかく勝たなければ。
 アキラと公式戦で対局出来る機会は少ない。
 まだ、一度も勝てたことがないのだ。
 今度こそ、勝ってみせる。


◆    ◆    ◆    ◆


「負けました・・・」
 投了して顔を上げる。
 涼やかな顔をして石の片付けに入る塔矢アキラを見ながら、ムカつくけどやっぱり強い、と認めざるを得ない和谷である。
 片付けながらアキラが横を見たのでそちらに視線を送るとヒカルと越智がまだ対局中だった。
 次は決勝、勝った方がアキラと対局することになる。
 アキラにしてみればヒカルに勝って欲しいと思っていることだろう。
(対局前に動揺させちゃったかな・・・大丈夫かな、アイツ)
 対戦成績はヒカルの方が上だが、越智は決して弱いわけではない。
 アキラは早く片付けて対局を見に行きたいようだったが、和谷はあえて声をかける。
「あの・・・塔矢」
「はい?」
「オマエ、この後時間あるか?」
「すみませんが・・・進藤たちの対局が見たいので」
「終わってからでいいんだけど」
「検討ですか?」
「いや、そうじゃなくて、ちょっと話が・・・」
「・・・用事がないわけではありませんが・・・和谷さんがボクに
 そんなこと言うなんて珍しいですね。
 急ぎじゃなければ後日にしてもらいたいですが・・・どんな話ですか?」
「急ぎってわけでもないんだけど・・・ちょっと進藤のことで」
「進藤の?」
「オマエに聞きたいことがある」
「・・・わかりました。じゃあ、二人の対局が終わった後で」


◆    ◆    ◆    ◆


「・・・ありません」
 投了した越智の声に、思わず「ふう」と息を付く。
 際どい勝負だった。
 後ろにアキラが立っていることに気付き、ドキッとするが、見られて恥ずかしい碁を打ったわけではない、むしろ、良い対局だったと思えた。
 越智が無言のまま石を片付けているので、ヒカルも何も言えずにしまい始めた。
「決勝は塔矢君と進藤君ですね」
 棋院関係者の人が来て、声をかけられる。
「来週の決勝、二人とも頑張って」
 「はい」とそれぞれに返事をする。
「良い対局だったな」
 アキラに声をかけられる。
 越智はチラリと一瞬アキラを見たが、何も言わない。
「・・・正直、途中危なかった〜。オマエも勝ったんだな。
 オマエと公式戦で打てるのが一番嬉しい!」
 隣りに立っている負けた和谷には悪いと思ったが、ヒカルは正直に告げ、アキラはそれに笑顔で「うん」と頷く。
「さて、と・・・えっと・・・帰ろうかな」
 和谷とアキラ、対局前の話のネタに戻って欲しくない相手を前に、ヒカルはそれとなく呟く。
「ああ、じゃあまたな」
「決勝は最高のコンディションで戦えるよう、お互い頑張ろう」
 そう言って和谷もアキラも荷物を手にあっけなく帰ってしまった。
(・・・え?)
 確実に両方に引きとめられると思っていたヒカルは、
「進藤、そのマヌケ面で一人残る気か」
 と見学者もいなくなり、片付けの関係者しか残っていない会場を去ろうとする越智に声をかけられて、やっと我にかえったのであった。


◆    ◆    ◆    ◆


 普段、ヒカルが一人では絶対に入らないような雰囲気を持つ喫茶店を見つけて入り、和谷とアキラという珍しい組み合わせの二人は向かい合って座る。
 互いの飲み物が揃ったところで、アキラが口を開いた。
「それで、話というのは何ですか」
「その・・・進藤にさ、最近彼女・・・ってゆーか、
 まだ付き合ってるかはわかんねェけど、そういう相手がいるだろ?」
 アキラは思わず息を飲み込む。
 まさか、遠まわしに自分とヒカルのことを聞いているのだろうか。
 それとも、本当にそんな相手がいるのだろうか。
 そういえば、ヒカルは今日、自分を避けていたではないか。
 いや、でも、まさか。
「・・・あの・・・何の話ですか・・・?」
 動揺する心を悟られないよう、平静を装い尋ねる。
「しらばっくれるなよ、知ってんだろ?それに見てりゃわかるじゃん。
 アイツの態度っていうか・・・女子の間でも最近色気出てきたって話題らしくて」
「・・・はぁ」
「なぁ、相手、誰なんだ?」
「・・・ボクに聞かれても」
「進藤は自分じゃ「いない」って言い張ったけど、あの態度じゃ嘘なのはバレバレだ。
 そりゃオマエの立場もわかるよ、進藤の許可もなく言えないってのはさ。
 でも、頼むよ、オレ、心配なんだ」
「心配?」
「その・・・要するにオレに言えないような相手ってことかなって」
「・・・・・・」
「からかわれるのが嫌なだけって言うならそれでいいんだけど。
 なんか、そんな相手じゃない気がして。
 なぁ、進藤が言えなくて、オマエも口止めされてるような相手ってことは・・・
 アイツ、緒方先生あたりに悪い遊びでも教わってんじゃないよな?」
「は?」
「いや、緒方先生に失礼だってのは百も承知だけど!
 それくらいしか思い浮かばなくて。変な店の女の子とか・・・
 まさかそんなのに捕まってんじゃないよな!?」
 真剣な和谷の訴えに、アキラは笑いを堪えることが出来なかった。
「おい!オレ、真面目に聞いてんだぜ!?」
「すみません、それにしても・・・本当に緒方さんに失礼な話ですね」
「っお、緒方先生には言うなよ!?」
「はい・・・まぁ、ボクの知っている限り、
 そんな事実はまったくないのだけは誓って言えますよ」
「ホントだな!?」
「嘘付いてどうするんですか」
「うん・・・たしかに、オマエならタチの悪い女に進藤がひっかかってたら
 黙ってなさそうだもんな」
「そうですか?」
 他人から見て、ヒカルに接する自分がどう映っているのか気になった。
「だって進藤の碁に悪影響がありそうな相手なんて許さなそうじゃん」
 碁に悪影響がありそうな相手、という言葉に、アキラはドキリとする。

(自分が、そうではないと、言えるだろうか)

「塔矢?」
 訝しげに呼ばれてアキラは我にかえる。
「・・・とにかく、ボクがお話出来ることはありません」
「オマエ、進藤が変な女にハマればライバルが減るとか思ってないよな」
 言われた言葉に、アキラは反射的に睨み返す。
 あまりの眼力に思わず和谷は降参と両手を上げる。
「・・・悪かったよ」
「・・・それでは、用事があるのでこれで」
「ああ、引き止めて悪かった」


◆    ◆    ◆    ◆


 和谷は後悔していた。
「えっとぉ・・・ここはどうしたらいいですかぁ?」
 女子高生に上目遣いに見つめられて、思わず笑顔が固まってしまう。
「和谷さん?」
「あ、ええと、ここは・・・こうしてここ打って・・・こっちに備える」
「わ!すごぉい!さすがぁ!」
「ほんと〜思いつかなかった〜!」
 女の子に囲まれて碁を打ってキャアキャア言われるという人生初の経験は、嬉しいはずなのになぜか変な汗が出てきてしまう。
(女子高なら女子高って言ってくれ・・・!)
 恨みがましい気持ちで指導碁を依頼してきたあかりを見ると、真剣な視線が盤面に注がれていた。
 最初は、進藤ヒカルがやっているから、という動機で碁を始めたのだろうに、振られてしまった今でもこうして真剣に碁に取り組んでいるのだ。
(ホント・・・なんでこんなイイ子を進藤のヤツ振っちゃったのかなぁ・・・)
 そう思いながら、あかりの期待に応えるべく、気を引き締めなおして和谷は指導碁を続けた。

「今日は本当にどうもありがとうございました」
 帰りの駅のホームで、あかりに深々と頭を下げられ、和谷は慌てて
「いや、こっちこそ、普段は年寄り相手ばっかりだから、
 滅多にない経験出来て楽しかったよ」
 と返す。事実、最初は女子高生のノリにどうなることかと思ったが、最終的には身のある指導碁が出来たと思えた。
「あの・・・また来てもらえますか?」
 見上げるあかりの視線にドキドキと鼓動が早くなっていく胸を無意識に触る。
 そして、言うか言うまいか一瞬迷った後、和谷は思い切って口を開く。
「オレ、今日のことは進藤には言わずに来たんだけど・・・やっぱ
 それもちょっとアレかなって思ってて・・・。
 進藤は関係ないって言われるかもしれないけど、変にこそこそ
 動きたくないっていうか・・・」
「ごめんなさい・・・!そうですよね、すみません、気にさせてしまって・・・」
「いや、謝ることでもないんだけど、その、どうなのかなって思って。
 オレとこうやって関わっていくってことは、
 少なからず進藤も関係してくることがあると思うんだ。
 あかりちゃんがそれでもかまわないなら、オレは喜んで指導碁するよ?
 なんていうか・・・進藤のこと、吹っ切れてないなら、
 オレと会っても辛くなること、あるかもしれないって思って・・・」
「・・・私・・・ヒカルとは、今まで通り、幼なじみって関係でいたいんです。
 自分でその関係を壊すようなことしておきながら
 こんなこと言うのもって思いますけど・・・。
 だから、大丈夫です!ヒカルにも話していいですから!
 部活の皆にも、また和谷さんに指導碁してもらえるようにお願いしてねって
 言われてますし!
 もちろん、和谷さんのご迷惑じゃなければですけど・・・」
「・・・わかった。余計なこと言ってごめんな?また遠慮せず声かけてくれよな」
「はい!」
 あかりの笑顔にますます早くなる鼓動を感じながら、和谷は自分で言っておきながらあかりに断られなくて良かったと思ってしまったことを自覚せざるを得なかったのである。


◆    ◆    ◆    ◆


 そんなに噛み締めたら唇が切れてしまうのではないだろうか、とアキラはぼんやりとした頭で思った。
 気力を全て使い果たしてしまっていた。
 死力を尽くすとはこのことか、と思う。
 半目差で勝ったその盤面は、ヒカルとチェン・ツァイリンが北斗杯で打ったあの美しい碁とはまるで違う、強いて言うならば戦には勝ったけれど、生き残っている兵士も瀕死の一人、という戦場のようだった。
 よく、「見かけによらず碁が力強い」と言われる。
 自分でもそう言われる意味がよくわかった気がした。
 ヒカルの打つ美しい打ち筋を、力尽くで破壊したのだ。
「・・・はあぁ・・・っ」
 突如ヒカルが息を吐き出す。
 噛み締めていた唇は色が変わってしまっていた。
 そのままヒカルは盤面に目を落として黙ってしまう。
 アキラも、周りの観戦者も、誰も何も言えずにそんなヒカルを見守るしかない。
 若獅子戦、決勝、進藤ヒカルVS塔矢アキラ。
 塔矢アキラの若獅子戦四連覇という結果で大会は幕を閉じることとなった。

 表彰式の後、塔矢門下の芦原を筆頭に、ちょっとした優勝祝賀会が居酒屋で行われた。
 アキラとしては、本当はヒカルと二人で話がしたかったが、兄弟子の厚意を無下にするわけにもいかず、大喜びの市河などを相手に酒を飲めもしない宴会を割りきって楽しんだ。

 日付が変わった時間に駅からタクシーで家に戻ると、両親も不在で灯りも就いていない真っ暗な玄関先に、うずくまっている人影が見えた。
「・・・進藤!」
「・・・あ・・・やっと戻った・・・」
 うとうとしてしまっていたらしいヒカルが、眠そうな目で顔を上げる。
「連絡をくれれば切り上げて戻ったのに!!」
「オマエのための宴会だろ。んなわけいかねェよ」
「風邪をひくぞ!とにかく中に・・・」
「なァ・・・今日、泊めて?」
 今まで何度も言われたことがある言葉に、ドキッとする。
 暗闇の中、ヒカルの表情ははっきりとは読み取れなかった。


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