「半目差だったな」 アキラの部屋であぐらをかいて座ったヒカルは、第一声でそう言った。 「今までの公式な対局では、一番僅差だった」 アキラの言葉に、ヒカルは俯く。 「・・・でも、この半目差は、永遠に縮まらないような気がしちまった」 「キミらしくないな、そんな弱音は」 「・・・オレも、そう思う。でも・・・なんでだろ、なんか、 すごく・・・怖くなって、だから、ここに来た」 「・・・怖い?」 ヒカルの腕が緩慢に上げられ、アキラの服を掴む。 「オマエが・・・碁以外のオレを求める気持ち、ちょっとわかった気がする」 ゆっくりと、まるでシャツにキスするかのように胸元に顔を押し付けてきたヒカルを、アキラは戸惑いながらもそっと抱き締める。 深く吸い込んで、時間をかけて吐き出されるヒカルの呼気が、アキラの胸にしっとりと熱を伝える。 「・・・勝てないと不安になる。結果的に今日オレは負けたけど、 オマエを失望させる碁じゃなかったはずだ。 でも・・・やっぱり、怖いな、繋がりが・・・少ないっていうのはさ」 アキラの背中の感触を確かめながら、ヘビが絡みつくようにゆっくりと回された手に、アキラは無意識に息を飲み込む。 「オマエに勝ちたいなァ・・・どうしたら勝てるかなァ」 張りつめたような先ほどとは打って変わってのん気な声で尋ねられ、アキラは思わず力が抜ける。 「ボクに聞いてもしょうがないだろ」 苦笑して答える。 「・・・オレが勝てたらエッチさせてやるって言ったら、オマエ、負ける?」 「・・・進藤!!」 思わずヒカルを引き剥がして睨みつける。 「・・・良かった、怒ってくれて」 「・・・あたりまえだ!」 「オマエと高永夏ってエッチするような関係なんだって」 「はぁ!?」 突然言われたとんでもない言葉に、アキラは声を上げる。 「すげェぞ〜オマエってゆーか高永夏のファン。 オマエと高永夏がデキてるって設定で小説書いてネットで公開してんの。 しかも十八禁。いやァ・・・勉強になった」 ちょっと遠い目をするヒカルである。 「な、なんだそれは!!?」 「なんか知んないけど美少年同士の恋愛物って女の子に人気あるみたい。 女が書いてるとは思えないくらいエロイしエグイし・・・ オマエ、とんでもねェこと高永夏にされてることになってるぜ?」 「な、何ていうサイトだ!?」 「自分で勝手に探せ。一緒には見たくない」 ピシャリと拒絶される。 「・・・なんというか・・・ボクも見たくはないが・・・」 想像しただけで寒気がしてくる。なぜよりによって高永夏と。いや、ヒカルだったら良いのかというと、そういうわけでもないような、ちょっと読んでみたいような、読んだら虚しすぎることになりそうな。 「オマエがオレとあんなことしたいのかと思ったらちょっとショックだった」 伏目がちに、少し哀しそうな声で言われ、アキラは動揺する。 「ど、どんな内容だったかは知らないが・・・一部は誤解じゃないだろうか」 「オマエさァ・・・したいの?されたいの?」 上目遣いで問われて、アキラは思わず息を止める。 「・・・キ・・・キミと出来るなら、どちらでも」 「ふ〜ん・・・。オレさ・・・ショックだったけど・・・オマエとなら・・・いいかな」 そう言ってヒカルは再びアキラの胸に顔を埋めてしまう。 これは・・・完全に誘われている! アキラは息を飲み込む。 ありえないほど早くなっていく鼓動を、ヒカルは感じているのだろうか。 しかし。 不意にヒカルの体から力が抜け、いっそうアキラに寄りかかってくる。 「・・・進藤?」 声をかけても無反応なので、顔を覗きこむ。 (・・・・・・ふざけるな!!) 寝ている。 ・・・・・・脱力。 たしかに、もうとっくに日付も変わっている時刻だ。眠そうだな、とも思っていた。しかし。 (どうしてくれよう・・・・・・) こうしておあずけを食らうのも何度目だろう。 もう、強行突破しても許されるのではないだろうか。 どう考えても、これはヒカルが悪い。 が。 (やっぱりダメだ、寝込みを襲うのは、人として!) 「初めて」がそれでは犯罪である。 (それにしても) ヒカルは対局後、何時間もアキラの帰りを待っていたのだ。寝てしまうつもりなどなかったのではないだろうか。 (怖くなった・・・か) 勝てないと不安だと言った。 その気持ちはアキラも同様だった。 勝てなくなったら、ヒカルは自分のことなど見向きもしなくなってしまうのではないかという恐怖が常にある。 本当はわかっている。たとえヒカルがライバルと言いながらまだ一度も公式戦で負けていない相手だとしても、ヒカルに対する気持ちが変わるわけではない。 でも、自分がヒカルと同じ立場だったら、やはり、失うかもしれないという怖さを感じるだろう。 自分たちはずっとこんなジレンマを抱えていくのだろうか。 アキラは、ヒカルの髪に口付けてから、そっと床に横たえて、布団を敷く準備をする。 繋がりが少ないのは怖いと言った。 もっと、繋がることが出来れば、この不安な気持ちは薄らぐのだろうか。 本当に? 不意に、和谷との会話が思い起こされる。 『だって進藤の碁に悪影響がありそうな相手なんて許さなそうじゃん』 たしかに許さないだろう。それが、自分以外の相手だったら。 でも、本当は自分自身だって許したくはない。 プライベートの対局でヒカルに勝てなくなっているのはなぜだ? それが、公式戦でもそうならないという保障がどこにある? ヒカルにどんどん溺れていくのを自覚していた。 これ以上関係が進んでしまったら、一体どうなってしまうのだろう。 ヒカルは、今は自分と関わることで碁が疎かになっているようには感じられない。 けれど、この先は? 誰よりもたくさん一緒に打って、互いに切磋琢磨して、得られるものはもちろん大きい。 でもそれだけなら、ただのライバルでいるだけの方が良いのだ。 碁に関しても、 それ以外のことも、 これ以上関係が進むことはヒカルにとって、悪影響を与えることの方が多いのではないだろうか。 何度も、何度も自問してきた。 結論を出しては、考え直し。考え始めては放棄し。 わかっていることは。もう何もなかった頃には戻れないということ。 前に進むしかない。抑えられるような気持ちなら、最初からこんなことにはならない。 後悔するかもしれない。 ヒカルを傷つけるかもしれない。 それでも、もう、踏み出さずにはいられないのだ。 ・・・何度もそう思った。 けれど踏み出せない。 完全に無限のループに迷い込んでしまっていた。 一体どうすれば抜け出せるのだろう。 ヒカルの寝顔を見ながら、アキラは深くため息をついた。 ちなみに。 風呂からあがり、時間も遅いし寝なければダメだと思いながらも誘惑に勝てずにパソコンの電源を入れてしまったアキラは、静まり返った深夜の空気を「・・・ふざけるな!!!」と言う叫びで震わせるはめになるのであった。(ヒカルはその声にも起きずにスヤスヤと眠り続けた) 「・・・・・・あれ・・・?」 自分の部屋ではない天井に、ヒカルは目を瞬かせる。 そこがアキラの部屋だと気付き、飛び起きる。 昨日の服のままだ。 隣りの布団に目をやると、アキラはまだ寝ていた。 (オレ、寝ちゃったんだっけ!?) アキラと話をしていたはずだ。 ちょっと、いや、かなり、頑張って、抱きついちゃったりとか、したのに。 正確にいうと、アキラの胸に顔を埋めた時点でその温もりが眠気を誘い、その後のことは記憶が曖昧なのだが。 ヒカルは着たままだった服を軽く引っ張る。 例え何かされていたとしても文句は言えまい(いや、言うが)。 とりあえず何もされなかったようである。 変なところで真面目な男だ。 でも。 正直、昨日は、覚悟して来たのだ。 半目差で負けた。 家に帰った後も、心がザワザワしてどうしようもなくて、アキラの家に来てしまったのだ。 (オレ・・・どうかしてたかな。負けたからって、甘えにくるなんて) 一晩寝て冷静になった今、勢いに流されてしまわなくて良かったのかな、と思えた。 でも、本当は流されてしまいたかったのかもしれない。 (あー・・・なんか中途半端な状態だよなァ・・・) アキラの寝顔を見ながら、ヒカルは深くため息をついた。 「・・・進藤!?」 目覚めると、隣りの布団が空になっていた。 ヒカルの鞄もない。 まだ七時半だ。黙って帰ってしまったのだろうか。 布団から抜け出そうとしたところに、 「あ、おはよ、塔矢」 と、鞄を肩にかけ、頭にタオルを被ったヒカルがやって来た。鞄には着替えなど泊りの道具が入っていたようだ。 「わりィ、勝手に風呂借りた」 「あ・・・ああ、おはよう」 アキラは脱力して布団の上に座り込む。 「あぐらかいてるオマエなんて珍しー」 崩している足をヒカルに見られ、思わず正座にし直しかけたが、別にそんな必要もないと思いとどまる。 「別に・・・ボクだってそれくらいする」 「・・・キチンとしてないオマエって不思議」 「あぐらぐらいでそんな・・・」 「酔っ払ってるオマエとか見てみたいかも」 「まだ未成年だろう!」 「でもオマエって酒強そうだよなァ」 「・・・まァ、遺伝からすれば」 「あ、そうなんだ?オレはダメなんだよー。ビール一杯で酔っ払っちゃう」 「はぁ!?ダメだろう飲んだら!」 「んなこと言って緒方先生や芦原さんがオマエに飲まさないわけがない」 「う・・・・・・」 だしかに、昨日は市河というお目付け役がいたから飲まずにすんだが、門下生だけの飲み会ではそうはいかない。 視線を明後日の方向にそらしたアキラの前に、ヒカルもあぐらで座る。 「昨日は寝ちまってゴメンな」 不意に言われてアキラは返事につまる。 「寝込み襲ってないよな?」 「怒るぞ!!」 「ウソウソ、ごめん」 笑いながらヒカルは濡れた髪をタオルで拭く。 「最近キミに彼女が出来たんじゃないかって噂があるんだけど」 濡髪のヒカルを見て、その話題を思い出す。 「げ!なんでオマエまで知ってんの!?」 「ボクの耳に入るほど噂になってるってことだろ」 「なんでかな・・・オレ、なんか顔に出てる?」 「最近キミ、色気があるからなぁ・・・」 「ええ!?オマエまで言うのかよ〜」 「そんな格好でボクの前に来るなんて、それこそ襲われても文句言えないと思う」 「なんで?どこが?」 風呂上りの、上気した頬。濡れてしっとりした髪。ほのかな石鹸の香り。 「自覚がないのが一番問題だと思う」 アキラは腰を上げ四つん這いになって、ヒカルの薄赤く染まった頬に手を伸ばす。 ビクッとヒカルが肩を震わせ、身構える。 だが、拒絶することはなく、さらに頬を染めると、視線を落として俯いた。 アキラの指は頬から顎に滑り、ヒカルの顔を上向けさせる。 「・・・こんな顔、ボク以外には見せないで欲しいな」 そう言って唇を寄せると、ヒカルは一度軽くアキラを睨んだものの、目を閉じた。 五秒。 十秒。 ・・・何もされない。 ヒカルが焦れて目を開けると、そこには自分の顔をまじまじと見つめるアキラが。 「・・・な、なんだよ!」 「・・・あ・・・いや・・・・・・」 見惚れていた、とはさすがに言えないアキラである。 「し・・・したくないならいーよ別に」 「!そんなことはない!四十二日ぶりだぞ!?」 「うっわ!んな日数、数えてんじゃねェよっっ・・・って、そんなに経ってた?」 「北斗杯以来だからな」 「・・・オマエと二人っきりで会えるのって、けっこう、少ないよな」 「お互い勝ち残って、対局が増えてるんだ、しょうがないよ」 棋聖戦は互いにリーグ戦に残った。昇段制度の変更により、一気に七段に上がることになる。まだ十代でのリーグ入り、若手の竜虎と称され、最近ではイベントに呼ばれることやマスコミの取材も多い。 「貴重な機会なんだから無駄にすんじゃねェよ」 「昨日寝ちゃったのはキミだけどね」 「うっ・・・だから・・・悪かったよ」 そう言ってアキラの首に腕をからませ引き寄せ唇を重ねる。 言葉や態度で恥ずかしがったりするわりに、突如積極的に行動してくる。最初のうちは驚いていたものの、今ではすぐに順応出来るアキラである。 遠慮なく主導権を奪い取って四十二日分の思いを満たしていく。 「・・・・・・っん・・・!」 抗議の拳で背中を叩かれたのは、アキラの手がヒカルのTシャツの下に忍び込んだから。 そのまま布団にヒカルを押し倒す。 肌を滑るアキラの冷たい手に、ヒカルはゾクリと身を震わせる。 アキラの背中を叩いていたヒカルの手が、不意にパタリと床に下された。 「・・・抵抗・・・しないのか?」 唇を離して、アキラが問う。 「んー・・・なんか・・・よく考えたら・・・イヤじゃないかなって・・・思って」 そう言って照れたように笑ったヒカルだが、アキラを見て眉をひそめる。 「ってゆーかオマエ・・・なんか辛そうな顔してねェ?」 「え・・・?」 「なんつーか、目にいつもの熱っぽい感じがないっつーか。 あー・・・わかった、・・・迷ってんだろ」 「・・・・・・ごめん、その通りだ」 自分でもどうしたら良いかわからないから、ヒカルに判断を委ねるなんて卑怯だな、とアキラは自嘲する。 「オレ・・・昨夜はたしかにオマエと・・・こんな関係になってもいいって思って ここに来た。今も・・・うん・・・まぁ、このまましちゃっても・・・ いいかなって・・・思ってるけど・・・」 「進藤・・・」 「これってさ・・・当たり前だけど・・・ 他の人には内緒にしておかなきゃいけないことだよな?」 「・・・そう・・だね」 「今までの状態ですら彼女出来たかもとか言われてるオレが、 バレないでいられると思うか?」 「・・・自分で言わなければ、相手まではわからないんじゃ・・・」 「でもさ・・・それでも万が一にでもバレたら・・・やっぱ大変なことだよな・・・」 「・・・今さら怖くなった?」 それは、自分への問いかけでもあった。 「怖い・・・?・・・うーん・・・そうかな・・・なんだろ・・・ なんか・・・わかんねェけど・・・オレさ、和谷たちに 彼女出来たのかって聞かれてさ、でもさ、「塔矢だよ」なんて言えないじゃん。 言えないのって・・・イヤだなぁ・・・って思った」 そう言ってヒカルはフッと笑う。 「たしかに今さら、だよな。今さらなんだけど・・・今まではちゃんと 考えてなかったからさ。オレ、北斗杯の時に言われたこと、 これでもちゃんと考えたんだぜ?オマエのことちゃんと好きだって、 オマエとならしてもいいかなって、ちゃんと考えたよ。 やり方だって調べたし・・・ってゆーかおかげでヒデェもん読んだけど。 考えた結果、オマエのこと好きだし、オマエとならしてもいいって思えたけど、 でも、それってオレとオマエのことしか考えてなかったからかなって。 塔矢先生に・・・塔矢のお母さんに知られたら・・・ オレのお父さんやお母さん、和谷や伊角さんや市河さんに緒方先生に 芦原さん・・・棋院の人やマスコミ・・・いろんな人に知られたら・・・ きっとさ・・・傷付いて辛い思いするの、オレたちだけじゃないよな」 「進藤・・・」 「あーそっか、やっぱ結局怖いのかも。 オレたちってまだ誕生日来ても十七じゃん?オレたちが普通に男と女でさ、 子供とか出来ちゃったらさ、十七じゃ結婚も出来ねェし、子供育てらんねェし、 なんの責任も取れないだろ? それと同じでさ、今のオレたちがこれ以上先に進んじゃって・・・ それがバレたら・・・好きだからいいじゃんってオレたちの気持ちだけじゃ、 どうにも出来ないことがある気がする。 正直、わかんねェ。こんな真面目に考えなくたってバレなきゃ いいじゃんって気もするし。 バレたからって・・・オマエのとのこと、やめるつもりないし。 なぁ・・・オマエはどう思う?このまま・・・したい?」 「・・・したい」 「・・・そっか」 「・・・でも」 そう言って目を閉じたアキラは、ヒカルの隣りに仰向けに寝転んだ。 「・・・キミが言いたいこともわかるよ。 実はボクも、似たようなことを考えていた。 たしかにボクらはまだ、自分で全ての責任を取ることも出来ない子供・・・だな」 キス程度なら、たとえバレても「ふざけてた」で済むレベルだろう。 しかし、それ以上の関係になって、それが周りに知れた時に、ヒカルを守りきれる力が今の自分にあるとは思えなかった。 気持ちだけなら、周りのどんな批難にも負けない自信はあるけれど。 「うん。だからさ、もうちょっと我慢しようぜ?」 「それっていつまで?」 「そーだなぁ・・・たとえば・・・大人っていったら二十歳?」 「あと三年もあるじゃないか。せめて結婚出来る年齢の十八にしてくれ」 「オマエって・・・お堅いイメージのクセに詐欺だよな・・・」 「ボクが周りのイメージ通りの人間じゃないのはキミが一番良く知ってるだろ」 「まぁなぁ。でも・・・十八、来年か・・・。年取るだけで、なんか変わるのかなぁ・・・」 「・・・じゃあ・・・タイトルを取ったら、とか」 「・・・棋聖、か」 二人ともリーグ戦に残っている、現在一番近いタイトルだ。 「タイトルを取れれば、二人の関係がマイナスなものじゃないって わかってくれる人もいるかもしれない」 「まァ、強けりゃいいって部分はけっこうあるよな、スポーツとかでも」 言動に難がある選手でも、結果を出せばスターのようにもてはやされるのはよくある話だ。 「よし、リーグ戦を勝ち上がって、一柳先生に挑んでみせる」 「おいおいちょっと待て!挑むのはオレだってば!」 「棋聖を取る。そしてキミを手に入れる」 「だから勝手に盛り上がるなって!」 「・・・明日は必ず勝つ!」 「明日のオマエの相手って、緒方先生じゃなかったっけ?」 「誰が相手だろうが関係ない!俄然やる気が出てきた!」 「バカか!そんな不純な動機で打つなら負けちまえ!」 「・・・そしたらキミがボクのために頑張ってくれる?」 「・・・だから!そんな不純な動機で打たないっつーの!」 「不純かな?純粋に、キミが好きだからそう思うんだよ」 真面目な顔してそう口にするアキラに、 「・・・ったく、しょーがねェーヤツ」 と、ヒカルは苦笑しながら身を起こし、手を伸ばす。 「とーぶんこれだけで我慢しときな」 そう言ってアキラの頭を引き寄せ軽いキスをして、立ち上がる。 「さて!じゃあ、明日に備えて打つか!」 「・・・タイトル取るまでに相当忍耐強くなれそうだ」 アキラはため息をついて起き上がる。 タイトルを取る。 そうすれば。 話はそんなに単純なことではない。 タイトルを取っても、この関係が世間一般に許されるわけでもない。 むしろ、社会的な地位を得ることで、いっそう難しくなるかもしれない。 けれども、このままではやはり踏み出すことは出来ない。 決して簡単なことではない。 もしかしたら、何年も先になってしまうかもしれない。 けれど、乗り越えられたら、きっと何かが変わるだろう。 それが良いことか、悪いことかは、その時が来たらまた考えればいい。 碁盤を運ぶヒカルを見つめる。 こうしてヒカルと碁が打てる。 それが、もしかしたら一番の幸せかもしれないのに、なぜその幸せを壊してしまうかもしれないようなことを求めてしまうのだろうか。 もっと、よく考えなければならない。 一時の感情に流されて、ヒカルを失うわけにはいかないのだから。 頭ではそう思っていても、堪えられない時もあったけれど、タイトルを取るまで、というこの約束を枷としよう。 それをタイトルを取るためのエネルギーに変えられないようでは、この先も自分たちの関係は良いものにはならない。 『だって進藤の碁に悪影響がありそうな相手なんて許さなそうじゃん』 互いに、そんな相手になるわけにはいかない。 それは、最も恐れていること。 「どうした?」 考え込むアキラに、ヒカルは白石が入った碁笥を渡す。直前の対局で負けた方が黒を持つと決めてあるからだ。 「いや、打とう」 「おう、今日は負けねェぞ」 ◆ ◆ ◆ ◆
「オッス進藤、この間の座間先生との手合、惜しかったなー」 不意に背中を叩かれ、ヒカルはつまずきかけたがなんとか耐えて振り向く。 「痛ェってば!・・・惜しくても負けは負けだ!」 お返しとばかりに肩にかけていたリュックを和谷にぶつける。 棋聖戦は終盤を迎えていた。 ヒカルの戦績はアキラ、緒方、座間に負けて二勝三敗。挑戦者決定戦には届かなかった。 「でもリーグ落ちは免れたんだろ?来年またチャレンジ出来るじゃん」 「オレは今年勝ちたかったの!」 「来年、もしかしたら塔矢棋聖をブッ倒せるかもしれないぜ?」 そう、アキラはリーグ戦を全勝で勝ち上がり、挑戦者決定戦にも勝利し、いよいよ一柳棋聖への挑戦手合を行うことが決まった。 アキラはヒカルにも、緒方にも勝利し、確実にタイトルへと近付いていた。 (動機が不純なくせして・・・尋常じゃない気合いだもんな・・・) 六月から十一月の今日まで、さすがにヒカルの誕生日の時はちょっとばかり手を出してきたアキラであるが、それ以外はさながら修行僧のようにタイトルへ向けて邁進しているように見えた。 「・・・ま、たしかに塔矢からタイトル奪取ってのもいいけどな」 だが、そう言うヒカルにもタイトルのチャンスは近付いていた。 他ならぬ本因坊戦である。 三次予選を勝ち上がり、先日始まったリーグ戦でもすでに一勝している。 アキラは三次予選で敗退し、今期は残っていない。 本因坊リーグには棋聖リーグでは負けてしまった緒方も座間も残っている。 今度は負けられない。 「ところで、先週だっけ?あかりんとこの指導碁」 「ああ、その次の日の大会で団体戦ベスト4まで行けたって連絡あったぜ」 「お、すげェじゃん、万年初戦敗退だったんじゃなかったっけ?」 「そう、ま、オレの指導のおかげってヤツ?」 「たしかに和谷って面倒見いいから先生とか向いてそうだよな」 「あ・・・いや、そんな、皆の努力の賜物だけど」 「何照れてんだよ」 ◆ ◆ ◆ ◆
「あのさ、進藤、ちょっと話があるんだけど」 心なしか顔を赤くした和谷に、あらたまった様子でファストフード店に誘われて、藤崎あかりに頼まれて部活の指導碁をすることになった、と報告されたのは「彼女でも出来たのか?」と尋ねられてから一ヶ月ほど経った七月のことだった。 「オレ、あかりちゃんってオマエの彼女だと思ってたんだけどな」 「ただの幼なじみだって言ったろ」 「でもあかりちゃんはオマエのことそう思ってなかっただろ」 「・・・あかりがそんな話したのか?」 「ってゆーか見てりゃわかるだろ、気付かないオマエがどうかしてるよ」 あきれた様子で和谷に言われ、ヒカルは閉口する。 たしかに、あのアキラですらあかりの想いに気付いていたのだ。 自分が鈍いと言われても仕方がない。 「なァ・・・なんで振っちゃったんだ?彼女、すごく良い子じゃん」 「・・・和谷には関係ないだろ」 「んな言い方ねェだろ!オマエさ・・・あかりちゃんに会ってないみたいだから 知らないだろうけどさ、彼女、きっとまだオマエのこと好きだぜ? たいした理由もなく振っちゃったんならさ、幼なじみじゃない目で あらためて見直してみるとか、ちょっと考え直してあげるとか・・・。 なァ、彼女を好きになる可能性って、まったくないのか?」 「・・・あかりには悪いけど、アイツのこと幼なじみ以上に思うことはねェよ」 「絶対か?」 「うん」 「やっぱり、他に好きな人がいるのか?」 問われて、あかりには他に好きな人がいるという理由で断ったことを思い出す。 もしかしたら、あかりから聞いているのかもしれない。 「・・・オレは・・・あかりのこと、大切な幼なじみだと思ってる。 あかりは、それで良いって言ってくれたよ。 だから、これ以上はいくら和谷でも干渉してほしくない」 「・・・しつこく聞いて悪いとは思ってるよ。 あのさ・・・オレ・・・実はさ・・・」 そこまで言って、和谷は窓の方を向いて黙ってしまう。 「何だよ」 「・・・オレ・・・たぶん、あかりちゃんのこと好きになっちまうと思う」 「・・・え?」 「わかんねェけど!このまま指導碁続けて、何度も会ってたら、そうなっちまうと、思う」 「和谷・・・」 「だから、はっきりさせておきたいんだ! 彼女がオマエのことまだ好きだろうなって思うから、 ここでオマエがやっぱりあかりちゃんと付き合うとか言い出したら、 オレ、全然勝ち目ねェじゃん。 ・・・オマエのこと・・・ダチだと思ってるし、 こんなことで変な風になりたくねェし・・・だから・・・」 「和谷が・・・あかりをかぁ・・・」 「って感心してんじゃねェよ、どーなんだよ!」 「どーっていきなり言われても・・・和谷とあかりかぁ・・・」 「オレとあかりちゃんがもし、もしも付き合うことになったら、 オマエ、やっぱり渡したくねェとか思わないか?」 「・・・渡したくないってゆーか・・・なんだろ、娘を嫁に出すお父さんな気分」 「真面目に答えろ!」 「ええと、じゃあ、妹に恋人が出来た兄貴な気分?ってこんな感じ?」 「おい!」 「だって、ホントにそうなんだよ!あかりは、やっぱ、家族みたいな感じなんだよ。 恋愛対象には見れない。・・・オレだって和谷のこと大事な友達だって思ってる。 だから、信じろよ」 「・・・わかったよ。悪かったな」 「でも・・・そっか・・・和谷があかりをかぁ・・・」 「べ、別にまだ、オレだってホントに好きかわかんねェし、 あかりちゃんだってオマエのことまだ好きなんだろうからさ、 どうなるかなんてまだ全然だけど」 「あかり、ああ見えてけっこう口うるさいぞ?カカァ天下になるぞ?」 「それはオマエが口うるさく言わなきゃちゃんとしないタイプだからだろ。 まァ、彼女はそういう男が好みなのかもしれないけど」 「じゃ、和谷も好みなんじゃん?」 「どーいう意味かなァ?」 ◆ ◆ ◆ ◆
「で、結局、あかりとはどうなんだ?」 この数ヶ月、大会で結果が出せるほど熱心に指導碁に行っているくらいだ。 何か、進展でもあったのだろうか。 「ど、どうって・・・別に・・・」 「オレに遠慮してんじゃないよな?」 「そんなんじゃねェけど・・・。なんつーか、今言ったら彼女の寂しさに つけ込んでるみたいだし」 「でも、もう半年以上経ってるぜ?」 「・・・オマエがいつまで経っても恋人の存在明かさないから 踏ん切りがつかないんだろうがよ」 それは一理あるかもしれない、とヒカルは口をつぐむ。 でも、明かせないのにはわけがある。 「オレ・・・あかりと会った方がいいかな」 ホワイトデーのあの日から、一度も会っていない。 まだ近所付き合いが続いている母親同士の情報から、近況が聞こえてくるぐらいだ。 「最近あかりちゃんが遊びに来なくて寂しいわ」と含んだように言われることもある。 「・・・オレ、オマエと彼女が付き合うことになっても、いいよ」 和谷に、真面目な顔でそんなことを言われて。 「バーカ・・・それはねェよ」 「会ってちゃんと話してやれるなら、会えばいいだろ」 「・・・そうだな」 自分はきちんと断った。だから、関係ない、という思いがないわけではなかったけれど。 ドライに断ち切れるほどあかりは自分にとって簡単な存在じゃないという思いもあった。 あかり。 和谷。 自分の大事な人たちが、自分のせいで辛い恋をしている。 でも、この大事な人たちを犠牲にしても、もっと大事な人が、いる。 (・・・オレも、辛い恋、なのかな) アキラとの秘密が増えれば増えるほど、きっと、辛いことも増えるのだろう。 (それでも、オレは塔矢を選んだんだ) ◆ ◆ ◆ ◆
十二月の街はイルミネーションに彩られていた。 ヒカルは、駅前のコーヒーショップの道を歩く人が見える席で、一人コーヒーを飲んでいた。 今日は、本因坊リーグ戦で座間と対局し、一目半差で辛くも勝つことが出来た。 アキラに自分が打った会心の逆転の一手を打って見せたいところではあったが、あいにく関西に対局で行ってしまっていて会えない。 (いい加減、携帯買わないとなー) 仕事関係でもそろそろ持つようにと言われている。 アキラも同様らしく、今度一緒に買いに行こうと言われたが、対局に取材にイベントにと忙しくなかなか日程を合わせられずにいた。 (あー・・・なんか疲れた) 座間との対局で精魂尽きていた。 だが、真っ直ぐ家に帰らず、地元の駅前で寄り道してしまったのは、電車の中に制服を着た高校生の姿が多かったからだ。 ここで時間をつぶしていたら、部活帰りのあかりに会えるかもしれない。 そんなことを考えて、この店の窓際の席に座ったのはこれで何度目だろうか。 運を天に任せているため、いつも二十分ぐらいしかいない。 正直、積極的に会いたいというわけではなかった。電車二本分ぐらいの偶然で良い。 そうして、ボーっと待ち行く人を眺めていた時、入学前にわざわざヒカルの家までお披露目に来た制服に身を包んだあかりの姿が目に入った。 ずっと待っていたはずなのに、なぜか体は動かなくて、そのまま人ごみに消えてしまいそうになったところでやっと我にかえり、慌ててコーヒーを飲み干して紙コップをダストボックスに投げ込み、店を飛び出した。 「・・・あかり!」 走って追いついた背中に声をかけると、一瞬の間の後に振り返ったあかりは、笑顔で「ヒカル!」と言った。 「久しぶりだね!ヒカルも同じ電車だったのかな?」 「あ、ああ、そうかもな。部活の帰りか?」 「うん。ヒカルは仕事帰り?あ!そういえば今日、座間九段との対局じゃなかった?」 「あ、うん。勝ったよ」 「ええ!すごい!良かったね、ヒカル!」 「ああ。タイトルに一歩近付いたって感じかなァ」 「タイトルかぁ・・・。すごいなぁ・・・ヒカル」 「あかりこそ、大会、ベスト4だったんだって?和谷に聞いたよ」 「そうなの!和谷さんのおかげだよ〜。忙しいのに熱心に指導してくれるよ。 すっごくイイ人だよね、和谷さん」 「和谷は面倒見がいいからなァ。オレも院生になった時から なんだかんだと世話やかれっぱなしだし」 「やかれっぱなし・・・ってまだ迷惑かけてるの?」 「うるさいな。和谷が世話好きだからしょーがねーの!」 「ヒカルったらァ」 昔のように、屈託のない笑顔で笑うあかり。 だが、今日の対局予定を知っていたことからも、和谷が言うようにまだ自分のことを忘れられないのかもしれない、とヒカルは自惚れではなく思う。 「あ、ねェヒカル、あの公園!懐かしいな〜。昔よく一緒に遊んだよね」 そう言ってあかりは右手に見える小さな公園を指差した。 「ちょっと寄ってくか?久々にブランコとか乗ろっかなー」 「うん、行こう行こう!」 走り出すあかりを追いかけて公園に向かう。 もう日も暮れる公園に遊んでいる子供はいなかった。 ヒカルはお目当てのブランコに行き、座る。 「こんな小さかったっけなー」 「小学校の遊具とかも久しぶりに見ると小さく見えるよね」 「えー、あかりはあの頃からあんま伸びてないじゃん。目線変わんなくね?」 「そ、そりゃ身長はあんまり伸びてないけど! ・・・ヒカルはまた伸びたよね?今何センチ?」 「170越えたかなぁ・・・去年よりけっこう伸びてると思うけど測ってないや。 でもまだ和谷にも塔矢にもちょっと負けてんだよなー」 「中学校の途中までは私の方が大きかったのになァ」 ヒカルはブランコに腰かける。 昔はちょうど良かった高さも、今座ると足が余る。 「よっ!」 足を伸ばした状態でブランコを漕ぐ。 久しぶりの風を切る感触が心地良い。 (ここで、石ころ拾って、碁石を打つマネしたっけな・・・) 佐為との思い出がよみがえる。 あの頃はまだ石も満足に持てなったのに、今はタイトルに手が届きそうな場所にいる。 本当に、いろいろなことが変わった。 変わってしまった。 「ヒカル・・・和谷さんから何か言われた?」 「え?」 「ごめんね、本当はさっきヒカルが駅前のお店にいたの、気付いてたんだ」 「・・・・・・」 ヒカルは、ブランコを漕ぐのをやめる。 足を地面に踏ん張ると、ギィッと音を立てて止まった。 「この間、和谷さんに聞かれたの。まだヒカルのこと忘れられないのかって。 私はね、もうとっくにヒカルのことなんか吹っ切れてますって言ったんだけど、 そんなことないだろうって・・・」 そう言ってあかりは苦笑する。 「自分ではちゃんと吹っ切ろうって思ってるんだよ? でも・・・ずーっとずーーっと長い間片想いしてたから、 忘れるのにもちょっと時間がかかるのかなあ・・・」 「あかり・・・」 「でも、ヒカルにだってちょっと責任あるんだからね! ヒカルってば恋人が出来た気配全然ないんだもん。 ヒカルのお母さんは私がヒカルに振られたこと知らないから、 今でもウチのお母さんに「ヒカルは碁ばっかりで彼女も出来ない」とか それとなくさぐり入れてくるし、和谷さんもヒカルの彼女に 心当たりないって言うし・・・。 ・・・ヒカル・・・あの・・・好きな人がいるって言ったの・・・嘘じゃないよね? 私、そんな嘘付かれて振られたわけじゃないよね? こ、こんなこと聞いて悪いとは思うけど、私、気になっちゃって・・・」 あかりに会った方がいい。 そう思ったのは、あかりにちゃんと伝えなければいけないと思ったからだ。 でも、何をどう伝えればいいのか、思いあぐねていた。 だから、あかりの部活が終わる時間を確認することもなく、偶然に任せて出会いを待っていたのだ。 いつか来るこの日を、覚悟しながら。 「・・・あかり」 ヒカルはブランコから立ち上がり、あかりが座っているブランコの鎖に手をかけた。 「オレ・・・あかりにだけは、本当のこと、話すよ。 これから話すことは、誰にも、和谷にも言わないでほしい。 ・・・そんなこと言える資格ないかもしれないけどさ。 ふざけんなって怒られそうだし、聞きたくもない話かもしれないけど・・・ あかりには、嘘付きたくないから」 「ヒカル・・・?」 鎖を握る手に力がこもって、ガチャリと金属音がした。 「オレが好きなのは、オレの恋人は、塔矢アキラだ」 あかりの体がピクリと震えた。 「・・・ごめん、聞きたくないよな、こんな話。 男同士でなんて、気持ち悪いって感じだろ?」 無意識に、自嘲的な笑みがこぼれてしまう。 「オレもそんなこたぁわかってんだけどさ、でも・・・アイツが好きなんだ。 自分でもさ、碁に関することだけ特別な相手ってだけでいいじゃんって 思わなくもないんだけど・・・それじゃダメだった。 何もかも全部、アイツが「特別」だし、アイツの「特別」でいたいんだ。 塔矢のことが、一番大切なんだ」 「じゃ・・・あ・・・塔矢君が言ってた、ヒカルのことを好きな人っていうのは、 塔矢君自身のことだったんだね・・・」 「ああ・・・なんか、そんな話を塔矢がしたって言ってたっけ。 うん・・・先に好きだって言ってきたのはアイツだけど・・・ オレも最初から・・・アイツのことは特別だったし。 アイツと初めて碁を打った時から、オレは・・・アイツしか目に入らなくなってたから。 塔矢はさ、オレにあかりを選んだ方がいいって言ったんだぜ? たしかにさ、理屈ではそっちの方が正しいってことはオレだってわかったけど・・・ それでも、オレは、塔矢を選んだんだ」 あかりは、ゆっくりと立ち上がって、鎖を握るヒカルの手にそっと手を重ねて、ヒカルを見上げた。 「話してくれて、ありがとう、ヒカル」 「・・・うん。・・・ごめんな」 「なんで謝るの?謝ることなんかないよ。そっかぁ・・・塔矢君かぁ・・・。でも納得」 「え?」 「ホント、ヒカルは昔っから塔矢君しか目に入ってなかったもんね。 せっかくいい感じになってた囲碁部だって塔矢君のために辞めちゃうし、 塔矢君と対局するためにプロにまでなっちゃうし・・・。 塔矢君と出会ってから、ヒカルの人生どれだけ変わっちゃったと思ってるの? ヒカルの人生、塔矢君を中心に回ってるみたいなものだもんね」 「や・・・そこまでは・・・さすがに」 「ハタから見ればそうなの!・・・うん・・・そっか・・・そっかぁ・・・。 正直ね、どんな女の子が相手でも、「私の方がヒカルのことわかってるのに!」 って思っちゃいそうって思ってたんだけど・・・。 塔矢君なら・・・敵わないこと、いっぱいあるなあ・・・」 「納得出来ちゃうのかァ・・・なんかそれもちょっと複雑」 繰り返し頷くあかりに、ヒカルは苦笑する。 「そりゃ・・・私だって複雑だよ。初恋の人に男が好きなんだって告白されたら」 「ぐ。・・・ええぇ・・・いや・・・そーかもしんないけどさァ・・・。 あ、でもオレ、塔矢以外の男なんて絶対イヤだぜ? 男が好きなわけでは断じてない! 塔矢だからだよ!なんつーか、そこは誤解しないでほしいっつーか」 「ウソウソ、冗談よ。塔矢君だから、なんだよね? ・・・ヒカルは・・・ずっと塔矢君を追いかけてたもんね。 良かったね、ヒカル」 昔から、何度も自分に向けられていた変わらぬ笑顔でそう言われて。 「・・・ヒカル?」 驚いたように名を呼ばれ、ヒカルは自分が泣いていることに気付いた。 「あ、あれ?」 ポロポロと零れる涙を拭う。目をゴシゴシと擦って、一度深呼吸をすると、それは止まっていた。 「・・・な、なんか勝手に出てきた。ビックリ」 「ヒカル・・・」 「あはは・・・いやぁ・・・まさか「良かったね」なんて言うヤツがいると 思わなかったからさぁ・・・驚いたっつーか・・・」 再び目頭が熱くなってきたのを感じて、目を閉じて俯く。 そばにあったあかりの肩に額を乗せる。 ブランコの鎖を握るヒカルの手に触れていたあかりの手が離れ、そっとヒカルの髪を撫でた。 「・・・オレ・・・自分で思ってるよりずっと、誰にも言えなかったこと 辛かったっぽい。秘密にしてなきゃダメだってわかってたけど、 オレ・・・きっと、誰かに認めてほしかったんだ。 オレさ、こうやってずっとあかりに甘えてきたんだな・・・」 気付けばいつもそばにいたこの幼なじみに。 優しくしてあげた記憶なんて、ないかもしれない。 それでも自分を好きでいてくれたこの幼なじみを、どうして好きになってあげられなかったんだろう。 佐為に出会わなかったら違ってた? アキラに出会わなかったら違ってた? でももう、そんな未来なんてない。 「そうだよ。ずっとずーっと、そうしてきたんだもん。 これからも、変わらないよ。いつまでもずっと、ヒカルは私の大切な幼なじみだよ」 「・・・うん。あかりはオレの、大切な幼なじみだ」 顔を上げると、優しく自分を見つめる瞳。 でもきっとそこには、哀しい気持ちが隠されてる。 誰かを好きになることが、 誰かを哀しませることにもなる。 運命の赤い糸が本当にあって、全ての人が幸せになれる運命の人とだけ繋がっていて、そのままその人に辿り着けたら誰も傷付かずにすむのに。 けれど、そんな簡単な恋ではきっとダメなのだ。 誰かが傷付いても。 誰かが哀しくても。 自分が傷付いても。 自分が哀しくても。 たとえアキラが傷付き、哀しむことがあっても。 「あーあ、私も早くヒカルよりずっと素敵な彼氏見つけなきゃ! ヒカルより優しくてーカッコ良くてー頭が良くて! そんな人、きっとたくさんいるもんね!」 あかりはヒカルから離れ、伸びをするように手を上げる。 「なんだとぉ!?」 と言いながらも、たしかにたくさんいるだろうとヒカルは思う。 そして、自分たちの事を心配していた人の顔を思い出す。 「・・・あー・・・あのさ・・・オレが言う筋合いないかもしれないけど・・・ オレに言われたくもないかもしれないけど・・・あのさぁ・・・」 「・・・和谷さんのこと?」 「げ、なんでわかんの?」 「そりゃ・・・そんな顔して言いにくそうにされたらわかるわよ。 鈍いヒカルとは違うもん!」 一言多い、と思ったが、自分がこの手の話しに鈍いのは本当なので反論出来ない。 しかし、一体どんな顔をしていたのだろうか。自分で知るすべはなかった。 「そーだよ、和谷だよ。鈍くないっていうならわかってんだろ? 和谷だって今年は成績いいからかなり忙しいはずなんだ。 それなのにオマエのために部活の面倒見てるんだぜ? まぁ、アイツはホントにイイヤツだから、見返りなんて求めてねェだろうけど。 オマエは・・・和谷のそういう優しさにつけこむようなヤツじゃないだろ? ・・・ちょっとは和谷のこと、考えてやってんの?」 オレに言われたらキツイかな、と思いはしたが、遠慮などなく言いたいことを言い合ってきた幼なじみなんだから、とあえて問う。 「・・・最初はね、部活の皆にはヒカルに指導碁に来てほしいって言われてたの。 私が幼なじみだって話しちゃってたから。 でも・・・やっぱりまだちょっとヒカルには頼み辛かったんだよね。 そしたら北斗杯があって、テレビとかでもやったじゃない? 皆が和谷さんもカッコイイって言い出して、そんな時、和谷さんに偶然会って・・・。 ホントはね、一回だけのつもりだったのよ? でも、和谷さんの指導碁、部活でもとっても評判良くて、それに・・・ 私ももっと教えてもらいたいなって思ったし。 和谷さんが、また来てくれるって言ってくれた時、 正直言って社交辞令であと一回ぐらいかなあって思ってたんだけど、 その後も「次はいつにする?」って聞いてくれて、 それで、ずっとお言葉に甘えちゃって・・・。 途中からね、もしかして、とは思ったの。自惚れもほどほどにって感じだけど。 でも、そう気付いてからは、やっぱり・・・気になっちゃうじゃない? 前にヒカルも塔矢君から告白された時そうだったんでしょ? 好きって言われたら、その相手のことを考えるようになる、気になるようになるって。 私も今、そんな感じ・・・かな。 ヒカルのこと、なかなか忘れられなかったし、和谷さんといることで 余計思い出しちゃったりもしたし、逆に和谷さんといて ヒカルのこと思い出してもなんとも思わなくなるようにしなきゃって思ったり・・・。 でも、今日からはもう大丈夫! ヒカルがちゃんと好きな人のこと話してくれたんだから、私も変われるよ。 ねえ、ヒカルはたーいせつな幼なじみのこと、和谷さんにだったら託せる?」 茶目っ気たっぷりな笑顔のあかりに、 「っつーか大切な友達の和谷に、あかりで大丈夫かなァ? あかりにはもったいないくらいイイヤツだし?」 とヒカルはニヤリと笑う。 「もーヒカルってば!」 「ウソウソ冗談!あのさ、こんなことオレが言うのもどうかと思うけど・・・ オレ・・・オマエには、幸せになってほしい。もちろん、和谷にもだけどさ」 本当は、自分が幸せにしてあげられれば、それが一番あかりにとって良かったのかもしれないけれど。 「うん・・・。ありがとう。私も、ヒカルには幸せでいてほしいな。 ヒカルが選んだ恋は、辛いことも多いと思うけど・・・」 そう言ってあかりはヒカルの目を真っ直ぐ見つめる。 「私、今日、ヒカルが本当のこと話してくれて嬉しかった。 これからも、私には何かあったらちゃんと話してね? ヒカルって、意外と一人で思いつめて突っ走っちゃうことがあるんだもん。 ちょっと、心配だよ」 「そうか?」 「前もなんか悩んでていきなり「碁をやめる」とか言い出した時あったじゃない!」 「あー・・・」 「塔矢君とか和谷さんにも言えないことがあったら、ちゃんと私に言うこと!いい?」 「はいはい、頼りにしてます」 おそらくわざとであろう、昔通りのお姉さん口調のあかりに、ヒカルもあえて当時と同じように適当な口調で返す。 そうして、二人で一緒に笑った。 翌年の二月、バレンタインが終わった頃、和谷とあかりのそれぞれから「付き合うことになった」という報告があった。 そして、二月も終わる頃、塔矢アキラは棋聖戦を制し、史上最年少のタイトル保持者となったのである。 |
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