(03.6.9)


『キミの孤独』



『碁の神様って孤独だな』

 そんな言葉が彼の口から出たことがとても意外で。
 ボクは何気ない時にふと、その言葉を思い出す。


・   ・   ・   ・



 北斗杯が終わってから一ヶ月が経とうとしていた。
 進藤はあの日以来一度も碁会所に来ていない。
 手合にはきちんと来ているし連勝も続けているけれど、耳に入った話では院生仲間や森下九段の研究会にも顔を出していないらしい。
 棋院でたまに会う時は声をかけて碁会所に誘ってみたりもするのだけれど、何かと理由をつけては断られていた。
 碁を打たないというわけでもない。
 話すのをさけたりする風でもない。
 でも、一緒に打とうという言葉にだけは決して頷かなかった。

 そんな彼から突然家に電話があって、一泊で一緒に因島に行かないか?と言われた時には驚いたけれどボクは何も聞かずに「いいよ」と答えた。


・   ・   ・   ・



 どうしようか、とすごく迷った。
 だからとりあえず棋院に電話して塔矢の対局予定を聞いた。
 手合もイベントもオレと重なってない日がちょうどあって、オレはそれで覚悟を決めた。
 決心したくせに電話の前で30分もオレは電話番号の最後を押せずに受話器を戻すって行動を繰り返してたらしくて、そんなオレがやっとかけた電話で相手を旅行に誘ったもんだからお母さんに「誰と行くの?!」としつこく聞かれてまいった。
 塔矢と、って言ってるのになかなか信じてくれなくて。
 とかいってオレが塔矢を旅行に誘うなんて、ホントはオレが一番信じらんないんだけど。
 でも、もっと驚いたのは塔矢があっさりと「いいよ」と言ったことだった。


・   ・   ・   ・



 出発の朝。
 いつもの黄色いリュックを背負って珍しくボクより先に進藤は駅の改札に立っていた。
「買っておいた」
 といきなり新幹線の切符を渡される。お金を払おうとすると
「いい、無理に付き合わせたから」
 と断られた。でも、と言うボクに
「ここだけだ。あとは割り勘」
 と有無を言わさぬ口調でそう答えて、彼はホームへ歩き出した。

 新幹線に乗ってからもボクらの間には碁以外に世間話らしい話もなく、目隠し碁でもしようか、と一応言ってはみたものの、案の定断られた。
 沈黙が続く。
 聞きたいことはたくさんあった。

 どうして手合以外の碁を打たないのか。

 因島に、そう、本因坊秀策の故郷でもある因島に、どうして行こうとしているのか。

 でもボクはもう彼との会話を試みようとはしなかった。

 「あ、富士山!」と車内が少しざわめいた。
 まだ静岡か、としばらく窓の外を眺めていると肩に重みを感じた。
 見ると、彼はボクの肩にもたれて眠っていた。
 また少し痩せただろうか。
 伏せられた睫毛の細さになぜだかボクは不安になった。

 時おり感じることがある。
 彼が追ってくると思って全力で走っているのに、振り向いたらいなくなっているのではないかと。
 それに近い現実があった。
 ちょうど一年ぐらい前のことだ。
 彼が碁を打たなくなった。
 いなくなってしまった彼を探して、ボクは必死だった。
 あの時、彼は戻って来てくれたけれど。

『オレ 碁をやめない。ずっとこの道を歩く』

 あの誓いは破られてはいない。
 けれど、ボクはまた彼を探している。
 ボクの後ろから遠く離れて、彼は今、一人でどこにいるのだろうか。

 こんなにも確かな彼の重みを肩に感じるのに、今にも消えてしまいそうで怖くて。
 ボクは、彼の髪に頬を埋めるようにもたれて目を閉じた。


・   ・   ・   ・



「目隠し碁でもするか?」
 と聞かれて、怒るかな?と思いながらもオレは断った。
 そしたら「そうか」と塔矢らしくもなくあっさり引き下がられて正直拍子抜けした。
 それからは話題もなくてずーっと二人して黙ったままだった。

 昨日の夜、緊張みたいなもん感じてあんまり眠れなかったからか、いつの間にかオレは塔矢の肩を枕にして寝てた。
 いけね、と思って体を起こそうとしたけど、塔矢が肩を揺らして起こしたりしなかったからオレはそのまま寝ちゃうことにした。
 だって、なんだか寝心地が良かったんだ。

 ふと目を覚まして時計を見るともう2時間も経っていた。
 重い、と思ったら塔矢もオレによっかかって寝てた。
 うーん・・・なんか今日の塔矢、変かも。
 でも、オレの前では怒ってばっかりいるような気もするけど、他の人の前では優しいもんな、コイツ。そういう時の塔矢みたいた。
 隙なんか見せない塔矢も、こんな風に隙だらけの塔矢も、どっちも本当の塔矢なんだろうな。
 今日みたいなオレを塔矢だって変だと思ってんだろう。
 でも、こんなオレも、オレ。
 弱くて逃げ出したくなっている、今のオレも、オレ。


・   ・   ・   ・



 いつの間にかボクも眠ってしまったらしい。
「・・・塔矢」
 と呼ぶ彼の声に目を覚まし、慌てて身を起こす。
 ボクにもたれかかったままの彼はまだ目を閉じていた。寝言だろうか、と思った時に、彼の目がうっすらと開かれる。
「・・・なんで、何にも聞かないんだ・・・?」
「・・・聞いてほしいのか?」
 彼はボクの肩の上で頭を横に振った。
「じゃあ、聞かない。だって、いつか話してくれるって言っただろう?」
「・・・うん」
 そう言って再び目を閉じた彼をしばらく見つめてから、ボクは窓の外へと視線を移す。
 そこには透きとおるような青い空。
 何もかもがこんな風に晴れれば良いと、思った。


・   ・   ・   ・



 尾道はすごく天気が良くて、雲一つない空の下オレたちはフェリーで因島へ向かった。
 そのまま真っ直ぐ石切神社へ向かう。
 たった1年前なのに、すごく懐かしいような気がした。
 広い墓地の中、オレは迷うことなく虎次郎の墓にたどり着いた。
 心のどこかであの時みたいに佐為を探してしまっている自分を少し笑いたくなったりして。やっぱりオマエが帰って来た時には連れてきてやりたいなとか思ったりして。
 どうしていないんだろう、隣に、オマエが。
 そう思ってからオレはそういえば塔矢と一緒だった、と今さらながら思い出した。
 すっかり自分の世界に入っちゃってた、と慌てて
「オマエ、ここ初めて?」
 と聞いた。
「うん。有名なところだけど来たことはなかった」
 塔矢はそんなオレを責める風でもなく、虎次郎―――塔矢にとっては本因坊秀策―――の墓を見つめながらそう言った。
「・・・そっか。じゃあさ、記念館とか見て来いよ。
 オレ、もうしばらくここにいるから」
 観光名所だから塔矢だって見たいものがあるだろうって思ってそんなこと言ったけど、本当は一緒に来てもらったくせに秀策のこと聞かれたくなかったから遠ざけたかったのかもしれない。あまりにも勝手だって、自分でも思うけど。
 でも、塔矢はその場を離れなかった。
 黙ってそのまま、そこにいた。


・   ・   ・   ・



 一人になりたいということだったのかもしれないけれど、ボクはそこを動くことが出来なかった。なぜだかわからないけれど、今彼を一人には出来ないと思った。
 我ながら、よくこんな状況を許していると思う。
 いきなり因島に行こうと言われて。
 そのくせ理由の一つも話してはくれなくて。
 それでも一緒に付いてきてあげたボクを蔑ろにしている彼を責めることも出来ないなんて。
 振り回されてばかりだと思う。
 出会いからしてそうだった。
 期待して、裏切られて、それでもボクは。


・   ・   ・   ・



 虎次郎の墓に触れてみた。
 墓石は硬くて冷たかったけど、こうすれば少しはオレの想いが届きそうな気がしたから。

 北斗杯の後。
 家に帰る途中の電車の中から鯉のぼりが見えた。
 その時になって思い出したんだ。
 ああ、今日は佐為がいなくなった日だったって。
 あれからもう1年もたったんだって気付いたら、なんだか無性に哀しくなった。
 1年も、アイツはいなかったんだ。
 その間、オレはどれだけ強くなれたんだろう。
 塔矢の碁会所、森下先生や和谷のところでの研究会、それに本因坊秀策の棋譜も全部見て自分の中ではこれ以上ないってくらい勉強したつもりだった。
 でもオレ・・・アイツといた頃に比べてどれだけ成長出来たんだろう。高永夏に負けて、余計にそう思った。
 アイツの存在の大きさを、あらためて感じた。
 そしたらさ、ここに来たくなったんだよ。
 なあ、虎次郎。
 オマエは本当はどう思ってたんだ?
 ・・・佐為に、全部打たせてやってたこと。
 佐為と出会った頃はもう棋士を目指してたくらい強かったんだろう?
 全部佐為が打って、有名になって、こんな風に記念館とか出来ちゃってさ。どう思ってるんだ?
 こんなに大きな、佐為を背負って。
 自分の碁を最後まで打てなくて、後悔とかしなかったか?
 オレ、わかんないんだ。
 オマエみたいに佐為を完全に受け入れられなくて、自分の碁が打ちたくてしょうがなくなって、自分が強くなっていってすごくすごく楽しかったのに、佐為がいなくなってしまったら、後悔、したんだ。
 なんでアイツにずっと打たせてやれなかったんだろうって。
 オマエみたいに。
 佐為はオレの碁の中にいる、そう思って頑張ってきたけど。
 でもオレ、佐為のこと弱いって言ったヤツに勝てなかった。
 だからやっぱりオレは間違えたんだろうかって思ったりするんだ。
 オマエは正しかった?
 オレは間違ってた?
 なあ虎次郎、オレはどうすれば良かったんだろう、どうすれば良い?
 オレは佐為の強さを守ってやれなかった。オマエみたいに。
 ごめん、虎次郎。
 ごめん、佐為。
 ごめん。


・   ・   ・   ・



「・・・塔矢、ごめんな」
 その言葉は突然だった。
「北斗杯、高永夏に負けて、ごめん。
 オレが弱くて、勝てなくて、ごめん」
 一言一言噛みしめるようにそう言われて、ボクは正直どうして今さら、と思った。あれから一ヶ月も経っているのに。

「・・・キミは本当は誰に謝りたいんだ?」

 思わずそんな風に聞いてしまったのは、彼がボクに背を向けて、本因坊秀策の墓に触れたままその言葉を言ったからだ。
 墓石に触れた彼の指が、ビクッと震えた。
 ああ、図星だったんだ。
 やはり彼は、どこか遠い他の誰かを見つめている。
 ボクを追いかけていると思っていたのに、いつの間にか違う道へ行ってしまったのだろうか。


 たった一人で。


『碁の神様って孤独だな』

 彼の言葉を思い出す。
 この言葉を口にする前に、彼は何を思ったのだろうか。
 誰かの孤独を憂えるなんて。
 そんなこと、全然彼らしくないのに。

 でもきっと、ボクが一番知っている。
 彼の孤独な一面を。

「高永夏が・・・キミが碁を打つのは
 遠い過去と遠い未来をつなげるためだと
 答えた後、こう言っていた。

『オレ達は皆そうだろう』と」

 その言葉に彼は振り向く。
「碁の神様は自分と対等に打てる相手を育てあげるために
 人間に碁を教えて精進させているのではないかと
 以前話したことがあるだろう?
 そんな風にボクたちは皆、遠い過去から遠い未来へ
 打ち続けている。碁打ちは皆、その思いを背負って打っている。
 高永夏が言ったように皆がその歴史の重みを背負っている。
 キミだけじゃない。
 ・・・でも」
 ボクはそこで一度言葉を区切って、彼を見た。
 強い風が吹いてきて、彼は少し長めの前髪がなびくのを鬱陶しそうに目を細めたが、ボクから目を逸らしたりはしなかった。

「・・・キミが背負っているものは、それだけじゃないんだろう?」

 ボクの言葉に、彼の瞳が揺れた。

「皆と同じものを背負っているだけなら
 ・・・あんな風には泣けない」

 対局後、キミの見せた涙がいつまでも心に残っていて。
 なぜ、そんなにも泣けるのかと。
 自分のためだけだったらあんな風にはきっと泣けない。
 誰のために、あんな風に泣けるのだろうかと。

「ボクが碁を打つのは、打ちたいからだ。
 父の影響はもちろんあるけれど、父のために打とうと思ってはいない。
 碁を打つということがボクにとっては生きるにも等しいと思うから、
 ボクは、ボク自身のために碁を打っている。
 でもキミは・・・そうじゃないんだろう?」
 ボクの問いに彼は答えなかった。
 ただ黙って、ボクを見つめ返す。

「あの時キミは・・・碁の神様は孤独だと言った。
 自分と同等の力を持つ相手がいてこそ碁は楽しいという話を
 していたのに、どうしてキミは神様の孤独なんてことを
 連想したんだろうって気になった」

 ボクは、何も答えない彼をしばらく見つめてから、彼の隣りに立って、本因坊秀策の墓に触れた。それはひんやりと冷たくて、逆にボクは自分の中に沸き起こる熱を意識してしまう。

「キミと秀策の間に何があるのか知らない。
 キミがまだ、たった一人で背負っていたいなら背負っていればいい。
 でも、キミは・・・もっと・・・キミ自身のために
 碁を打っても良いはずだ。
 誰かのためにあんな風に泣いて・・・誰かの孤独を背負って
 どうしてキミが碁を打つことでそんな思いをしなくては
 ならないんだ?!
 昔のキミは、もっと、もっと我武者羅で、必死で・・・っ
 ボクを追いかけていたじゃないか!
 それなのにいつの間にか・・・キミは遠い誰かを見つめていて、
 神の一手はオレが極めるだなんて・・・ふざけるなっ!
 キミはまだ、ボクに追いついてもいないじゃないか!」

 何も答えない、教えてくれない彼にボクの押さえていた苛立ちは溢れて、彼の腕をグッと掴むと思いがけないほどにそれは細くて、そのことがよけいにボクの心をざわつかせる。
「どうした?!何か反論したらどうだ!
 ボクにも勝てない、高永夏にも勝てない、そんな・・・弱いキミに
 ごめんだなんて、言ってもらいたくない!
 遠い過去と遠い未来をつなげるためだなんて・・・
 過去ばかりを引きずっているキミが!?
 自分のために碁が打てない人間が、誰かにつなげる碁なんか
 打てるものか!」
 掴んだ腕にさらに力を込めると彼は痛みに顔を歪めたけれど、それでもボクは離さず、彼も振りほどいたりはしなかった。

 ボクは、自分が周りから思われているほど優しい人間じゃないと知っている。
 本当は自分本位の人間で、他人に踏み込もうとも自分に踏み込ませようともしなかった。
 そんなボクの本性を一番知っているであろう彼が、今ボクに求めていることはなんなのだろう。
 優しい言葉、慰め、励まし、そんなものが欲しいのならここに一緒に来るのはボクじゃなくてよかったはずだ。

 不意に、進藤と因島へ行ってくると母親に告げた時に言われた言葉を思い出した。

『貴方たち仲がいいのね』

 なぜだか嬉しそうにそう言われて、ボクは否定することも出来なくて、曖昧に返事をしてしまった。

 仲なんて良くない。友達じゃない。
 ボクと彼は。
 でも。

「・・・塔矢、オレ・・・」
 やっと、彼が小さく口を開く。
 ボクは、反射的に腕の力を緩めていた。
「オレ・・・オマエの言うとおり、自分のための碁、
 打ってなかったかもしれねェ」
 そう呟いた彼は、大きな瞳からポロポロと涙を零して、それをシャツの袖で乱暴に拭った。
「・・・オレなんかが打ってもしょうがないって思ったんだ。
 オレじゃ、ダメなんだって。
 でも、オレが碁を打つことで、つながっていくものがあるって
 思ったから、オレはまた打ち始めることが出来た。
 なのにオレ、負けちゃって、だから、だからオレ・・・っ」
 ボクに掴まれているのとは逆の腕で、今度は彼がボクの腕を掴む。
「オマエに約束した。碁をやめないって。
 だから手合だけはちゃんと打ったよ。
 でも、しばらく一人になって考えたかったから
 オマエとも皆とも打たなかった。
 考えたんだ、どうしてオレは碁を打つんだろうって。
 高永夏に言ったみたいに遠い過去と遠い未来をつなぐため、
 その気持ちは変わらない。
 でも・・・」


・   ・   ・   ・



 でも。
 その気持ちだけじゃ、もう前へは進めないと思った。
 高永夏に負けて、オレは今みたいにみっともないくらい泣いた。
 佐為を背負って戦ったのに、勝てない弱いオレが許せなかった。
 佐為だったら高永夏に勝てただろう。塔矢だって勝てたかもしれない。
 そんな佐為や塔矢を裏切った弱いオレ。
 椅子に座ったままのオレの体は重くて立ち上がれなくて。

「・・・やっぱり・・・やっぱりオレじゃダメなのかな」
 北斗杯が終わった後、負けちゃったオレに院生仲間や碁会所の皆、北島さんでさえも「良い対局だった」って言ってくれた。
 皆はオレを許してくれたけど。
「・・・また、オマエを失望させちゃったよな」
「・・・ああ、勝ってほしかった」
 そう言われて気付いた。
 誰もよりもオレが勝つと信じてくれていたのは、塔矢だったんじゃないかって。
 それから塔矢はオレの腕を掴む指にもう一度力を込めてから静かに言葉を続けた。

「でも言ったはずだ。『これで終わりじゃない』と。
 ・・・キミは、終わらせたいのか?」

『これで終わりじゃない。終わりなどない』

 対局後。
 力を失ったオレの体は、この言葉で再び立ち上がることが出来た。

『行こう 進藤』

 オマエの言葉は、いつだってオレを前へと向かわせてくれる。

「・・・終わらせたくない」

 また、涙が出てきた。
 拭っても拭っても止まらなくて。
 オレはすがる様に塔矢の胸にそんな濡れた顔を押し付けた。
 嫌がられるだろうな、と思ったのに、そのままギュッと抱き締められて。
 オレはバカみたいに声をあげて泣いた。




 ・・・神様の孤独。

 本当はオレ、佐為のことを考えた。
 今、佐為はどうしてるんだろう、どこかで誰かと碁を打てているだろうか、塔矢先生にも勝ったアイツは新たな相手を見つけられただろうか。
 それともたった一人で、誰かを待っているんだろうか。

 もしそうだとしたら、オレは自分だけのために碁を打つことなんて、出来ないんだ。オレが佐為を背負って打ち続けなきゃいけないって思わずにはいられないんだ。
 だって、オレのせいでアイツは消えたのかもしれないんだから。

 だから。
 アイツが千年も夢見ていた、神の一手に届く日までは。

「・・・オレが神の一手を打ちたいなんて、叶えられない夢なのかな」

 神の一手にたどり着けば、神様は孤独じゃなくなるかもしれない。
 アイツのもとに、たどり着けるかもしれない。
 でも遠い。今のオレには遠すぎる。

「・・・夢は、叶えてしまったら夢じゃなくなるんだ」

「・・・え?」

 言われた言葉があまりにも意外で、オレは顔をあげる。

「叶ってしまったら夢は、もう現実なんだよ。
 そこで、終わる」

 塔矢は切ないくらいに真っ直ぐな、あの瞳でオレを見ていた。

「ボクも、キミと同じく神の一手を夢に見る。
 でも、もしかしたら叶わなくてもいいって思っているのかもしれない」
「・・・塔矢・・・」
「もちろん叶えたいよ。
 でも、たとえ叶わなくても後悔しない夢だ。
 自分の一生をかけてもいいと思う、夢なんだ」

 ああ、塔矢って強いなって思った。
 オレになくて、塔矢にある強さはこういう強さだったんだな。
 出会った時からそうだった。
 コイツの真剣な目に引きずられて。
 オレにみたいにフラフラしてない、真っ直ぐな強さを持ってる塔矢。
 自分と違うから、反発もするけど・・・オレはこの目に惹かれるんだ。


・   ・   ・   ・



 抱き締めたら、シャツ越しに彼の涙を感じた。
 腕の中の彼はこのままもっと力を入れたら壊れてしまうんじゃないだろうかと思うくらい頼りなくて。
 それなのに、ボクの中では圧倒的な存在感でボクを揺るがす。

「・・・やっぱり・・・やっぱりオレじゃダメなのかな」

 以前にもキミはそう言った。
 キミの学校の図書室で『オレなんかじゃダメなんだよ』と言ったキミに『ボクはそう思わない』に答えたのに、キミは『ゴメン』という一言と共にボクの前から去った。
 本当に、ボクはそう思わないんだ。
 キミじゃダメだなんて思わない。
 キミじゃなきゃダメだって、思っているのに。
 誰に対してダメだと思っているんだろう、キミは。
 それくらい、彼にとって高く、大きな存在の『誰か』。

 彼に出会う前は、ボクには真っ直ぐ進むべき未来があって、誰にも惑わされずその道を歩いていけると思っていた。
 それなのに、いつの間にか立ち止まったり、振り返ったり、そんな風にして彼を追いかけたり、見失ったり、また探したり。
 でも、そんな日がとても満たされたものに思えた。
 だから、気付いてしまった。
 今までの日々に、欠けたものがあったことに。

『碁の神様って孤独だな』

 彼の言葉で、気付いたことがある。

 門下の人たちも、碁会所の皆も、周りは優しい人たちばかりでボクは大切にされていたと思うけれど、でも、本当にいて欲しい人はそばにいなかったんだ。

『碁の神様って孤独だな。
 だって 自分と対等の相手いねェじゃん』

 キミは、ボクのことを思い浮かべただろうか。
 それとも、他の遠い誰かを思い浮かべて、孤独を感じたりしたんだろうか。
 キミの中に、今でもボクはいるのだろうか。


 キミの孤独は、ボクの孤独だ。
 キミが独りだと思うのなら、ボクも、独りだということなんだ。


 ずっと欲しかった生涯のライバル。
 見つけることが出来れば、強く、ただ、強くなれると思っていたのに。
 何かを手に入れるということは、同時にそれを失うことへの不安もつきまとうのだと初めて気付いた。

『無様な結果は許さない』

 韓国戦の前夜、ボクは彼にそう言った。
 高永夏に、勝ってほしかった。
 ボクの、強いライバルでいてほしかった。

 ボクの望むキミになってほしいだなんて。
 そんなおこがましいことをキミに望んで。

「・・・また、オマエを失望させちゃったよな」
「・・・ああ、勝ってほしかった」

 ボクが誰よりもキミの力を信じているだろう。
 でも、負けたキミに失望してキミを突き放したら、独りになるのはきっとボクの方なんだ。
 キミは昔、ボクを追いかけていた。突き放しても突き放しても後ろからキミの足音が聞こえた。
 ・・・今は、聞こえないんだ。
 キミが見ているのは遠い誰か。
 それなのに。
 ボクの腕の中で、こんなに頼りないキミを失えないなんて。

「・・・オレが神の一手を打ちたいなんて、叶えられない夢なのかな」

 神の一手。
 一人では決して叶えられない夢。

「たとえ叶わなくても後悔しない夢だ。
 自分の一生をかけてもいいと思う、夢なんだ」

 だから、同じ夢を見たいんだ、キミと。

 涙に濡れたままボクを見つめていた彼が、思いがけず微笑んだ。


・   ・   ・   ・



「・・・オレが、自分の碁を打ちたいって思ったのって
 オマエと出会ったからなんだ」
 オレがそう言ったら塔矢は驚いたみたいだった。
「・・・え?
 ・・・だってキミは・・・ボクに出会う前から
 碁を打っていただろう?」
「そうだけどさ。でも、オマエに会わなかったらオレ絶対
 プロになろうなんて思いもしなかった」
 そう、たぶん、いや絶対、佐為との出会いだけじゃ自分の碁に目覚めることなんかなかった。

『キミを一番知っているボクだからわかる
 ボクだけがわかる
 キミの中に もう一人いる』

 オマエだけが、気付いてくれた。

『キミの打つ碁が キミのすべてだ
 それは変わらない
 それでもういい』

 それでも、それでいいって言ってくれた。
 佐為じゃなく、オレでもいいって。

「オマエは・・・いつもそんな風に真っ直ぐな目をしてた。
 オレ、オマエのその目をどうしてもオレの方に向けさせたかった。
 オレ自身の碁で。
 ・・・やっと、正面からオマエの目を見ることが出来たのに、
 オレはいつの間にか自分から目をそらしちゃってたんだな」

 ああホントだ、叶えちゃったら夢は現実になるんだってオレは今になって実感した。
 塔矢がオレのことを見てくれたから、オレは違う夢を見始めちゃったのかもしれない。
 それじゃ、ダメだったんだ。
「・・・オマエが、いつだってオレを引っ張ってくれてた。
 オマエがいたからここまでこれた。
 だからオマエからだけは、目をそらしちゃいけなかったんだ」

 いつだって失くしてから気付いていた。大切だってこと。
 塔矢は、まだここにいる。まだ、オレを真っ直ぐに見てくれている。
 まだ、失くしてないから、失くしたく、ない。


・   ・   ・   ・



「オマエとここに来れて良かった」
 彼の言葉にボクは戸惑う。
「・・・ボクは、何もしていない」
「そんなことねェよ」
「・・・そうなのか?」
「そうなの!」
 彼が笑顔を見せたので、ボクはしまっていた問いを口にする。
「なぜ、ボクとここに来た?
 ・・・いつか話すといったこと、今なら話してくれるか?」
 本因坊秀策の墓の前。場所としてこれ以上のところはないだろうに、彼は「うーん」と考えてから一言。
「まだダメ」
「進藤!」
「ダメったらダメ!だって・・・オレの中でまだ答えが出てないから」
「答え?」
「オマエこそ、なんで一緒に来てくれたんだ?
 ・・・あ、オレが話すと思ったからだったりする・・・?」
「そういうわけじゃないが・・・なんで来たんだろうな」
 なんだそれ、と彼は笑う。
「・・・キミがなぜボクを誘ったのか知りたかったからかな」
 そう言うと彼は笑いを引っ込めて、考えるような顔をする。
「・・・だって、他のヤツじゃわかんねェもん。
 虎次・・・本因坊秀策の墓にいきなり連れて来たってさ」
「ボクにだってわからないぞ」
「〜〜〜そーだけど!」
 彼はまたしても「うーん」と考え込んでいる。
 それから静かになって、目を閉じて俯いてから、顔をあげてボクを見た。
「・・・いつも、オマエがいたんだ。
 初めて自分の碁を打ちたいと思った時も、
 院生試験を受ける時もプロ試験を受ける時も
 ・・・もう、碁は打たないと思った時も、
 オマエはずっとオレの前にいた。
 オレ、いつだってオマエに追いつくために打ってたんだ。
 高永夏に負けて・・・オレ、背負っているものの重さに
 潰されそうになってたと思う。
 でもオマエ、言ってくれたよな。
『これで終わりじゃない』って。
 オレの碁の始まりにはいつだってオマエがいたから。
 ずっとさ、オマエはオレが前に進むために必要な力だった。
 終わりなんか、ないんだよな。
 オレたちが歩く道には。
 だからもう一度、オマエとここから歩き始めたかったんだ。
 オマエがいればオレはもう一度歩き出せるって、思ったんだ」


・   ・   ・   ・



 オレがそう言ったら、塔矢は唇をちょっと歪めて、オレが(あれ?)って思った時には・・・また抱き締められていて、塔矢の顔は見えなくなっていた。一瞬、塔矢が泣きだしそうに見えたけど、コイツのことだからオレみたいに人前で泣いたりなんか、しないよな。

 嬉しかった。
 時々、思ってたから。
 塔矢は強いから、オレがいなくても迷ったりせず真っ直ぐ進んでいける。
 だから本当は塔矢にはオレは必要ないんじゃないかって。
 でも、こんな風にされると・・・オレにとって塔矢が必要なように、塔矢にとってもオレが必要なのかなって、思える。
 塔矢の背中に腕をまわしてみた。
 誰かとこんな風にしたことなんかないなぁって思いながら、そういえば佐為には触れることすら出来なかったんだって気付いた。
 抱き締める腕も、抱き締められる体もなくて、一瞬目を逸らして再び見た時には消えてしまうほどに危うい存在だったんだ。
 でも今、息を吸うたびに伝わってくる背中の動きとか体温は、アイツからは得られなかったもので、そのことが・・・哀しくなるくらいに、今ここにいる塔矢が確かな存在だと信じることが出来た。

 佐為が消えた理由を知りたかった。
 それ以上に、佐為がオレを選んだ理由を知りたかった。
 そう、まだ答えを探しているんだ。
 虎次郎とは違う、オレの答えを。
 それはきっと、神の一手の先にある。
 今オレのそばにはそこへ続く道を一緒に歩いてくれるヤツがいる。

 嬉しくて。
 オレは塔矢にバレないように、またほんの少しだけ泣いた。




 ・・・で。
 なんか引っ込みがつかなくてしばらくそんな風にしてたけど、いいかげんオレは恥ずかしくなってきて、どーしよーどーしよーと考えたあげく、脇腹をくすぐるという暴挙にでたら、塔矢は「し、進藤っ」とびっくりしてオレから離れて、オレはその慌てっぷりが可笑しくて笑った。

 笑って、笑って・・・こんな風に笑えたのって本当に久しぶりだと思った。


・   ・   ・   ・



「さーて!宿に行くか!オレ、ちゃんと碁盤を貸してくれるとこ
 予約しておいたからさ!今日は朝までみっちり碁を打とうな!」
「・・・いやだ」
「・・・。・・・え?ええ?!なんで!?」
「・・・冗談だ。
 でも、忘れるなよ。キミはそうやって今までボクの誘いを
 断っていたんだからな」
「ッイテ!デコピンすんな!悪かったってば〜もうしねェよ」
「キミはあてにならないからなあ・・・」
「なんだよ〜。オマエ、そういうとこしつこい!」
「なんだと!?」
「あ〜もう、ほら行くぞ!」
「おい待て進藤!」

 二人で走り出した。
 走りながら見上げた空は、どこまでも透きとおるように青く晴れていた。


・   ・   ・   ・



『碁の神様って孤独だな』

 あの時オレは、佐為のことを考えてそんな気持ちになった。
 でも、オレは孤独じゃない。
 あの時も、今も、オレはそう思ってる。




「完」
あとがき。
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