(03.9.14)


『傘』



「すっかり暗くなっちゃったなあ〜」
 いつものように塔矢の碁会所で今週の対局の検討をして、これまたいつものように白熱して、気付けば日などとっくに暮れていて。
 外へ出たオレは夜空を見上げた。
「でも雨はもうやみそうだね。・・・おい進藤!ちゃんと傘をさせ」
 小雨だからまあいいか、と歩き出したオレの背中を塔矢の声が呼び止める。
「え〜だって駅すぐそこじゃん。なんか傘って面倒なんだよな〜」
「面倒くさがって対局前に風邪をひいてもつまらないぞ」
「わかったよぉ」
 これで本当に風邪をひいてしまったりした日には何を言われるかわかったもんじゃないからなあ。
 オレはあきらめて傘を開く。
 ワンタッチの傘のポンッという小気味良い音が響いた。
 これでいいだろ?というように振り向くと、傘を押し開いて差す塔矢の姿が目に入った。

「・・・あ」

「何?」
 なぜだかわからなかったけれど、その優雅ともいえるような仕草があの懐かしい人と重なった。
「・・・いや。なんかオマエってワンタッチの傘似合わなそうだな」
「・・・どういう意味だ?」
「褒めてんの!オレの傘ってワンタッチでポンッって開くじゃん?
 これなら片手で簡単に開くし、なんでワンタッチじゃない傘があるんだろうって
 思ってたけど、なんかわかった気がする。
 傘はそうやって開いた方が大人っぽいっていうか、綺麗だ」
「いきなり何を言い出すんだ」
 言われて塔矢は苦笑していた。でも、本当にそう思ったんだ。
「だってやっぱり子供っぽいじゃん、これ」
 傘を途中まで閉じて手を放す。
 ポンッ。
 濡れた傘から霧のような雫が微かに飛んだ。

『ヒ、ヒカル!今のはなんですか!!』

 不意に、耳元で声が蘇る。
 あの日はザァザァ降りの大雨で。
 そう、あれは佐為と会ってから初めて降った雨の日だった。


『ヒ、ヒカル!今のはなんですか!!』
『えっな、何が?!』
『傘です!今ポンッて開きました!!』
『え?これ?』

ポンッ

『す、すごい!ヒカルはそんな術が使えるのですか!!』
『術って・・・カサはもともとこういうもんなんだよー』
『えええ!すごいですねえ!ヒカル、もう一回!もう一回やって下さい!』
『わわっ!わかったよ〜ほら』

ポンッ

『すごい!ヒカル、もう一回!』
『あ〜もーうるさい!』
『ヒカル〜!もう一回だけ!』

 ねだられて。
 何度も何度も傘を開いて見せたあの日。
 もう、懐かしく思ってしまうほどに時が過ぎているなんて。

「でも傘って本当に進歩のないものだな。
 昔からこの形状だし差していても濡れてしまうし。
 ワンタッチで開くようになったのが一番の革命かもしれないな」

『いにしえの頃より碁盤も碁石もかわりませんが――――
 ヒカル この傘も千年前とかわりませんねえ』

 ああ、アイツもそんなこと言ってたっけ。

「ホントにな。人間が月に行く時代に傘だもんな」
 塔矢の言葉にそう返して、かつて同じ会話をした相手のことを想った。

「傘も変わらないけど碁盤や碁石も変わっていないよね」

 まるであの時の会話をなぞられたように塔矢にそう言われて・・・オレは思わず息を止めた。

「昔からずっと続いていて、これからも変わらずに続いていくもの。
 それってものすごく価値のあるものだという気がしないか?」
「・・・うん。そうだな。オレもそう思う」
 過去からずっと、つながっているもの。
 それは、それをとても大切にしていた人たちが、守ろうとしてきた証。
「平安時代の人間とかがさ、今の世の中にひょっこり現れたりしたらさ、
 いろいろ変わっててびっくりするだろうけど
 傘とか碁石とか碁盤とか、変わってないもの見つけたら
 嬉しいんだろうなァ」
「たしかに、今こうして景色を眺めても昔のものと変わっていない
 ものの方が少ないかもしれないな」
「信号に電灯、道路に車に標識に・・・街路樹だって違う気が
 するもんなあ」
 オレはあたりを見回す。

 自動販売機に驚いていたっけ。
 棋院にある偽物の魚が泳ぐ水槽とか、そうそう、テレビにも驚いてたしインターネットでの対局、それから・・・。

 新しいもの見るたびに大騒ぎして喜んで・・・そんな姿を見るのが、面白くて、嬉しくて。
 他にもいろいろ未知のものを教えてあげられただろうに。
 何度もあの笑顔を、見れただろうに。

「あ、雨がやんだ」
 隣りで塔矢が傘を閉じて夜空を見上げた。
「昔の人も、同じ月を見たんだろうな」
 言われてオレも夜空を仰ぐ。
 薄い雲の向こうに、鈍く光る、月。
 ふと、思った。
「・・・月に行ってみたいな」
「え?」
「・・・よし、決めた!
 タイトルい〜〜っぱいとってお金ためて月に行くぞ!」
「またずいぶん突飛なことを言うな」
 大声で宣言したオレに塔矢は苦笑する。
「いーじゃん!雨に濡れるような傘使ってるくせに人間は月の上を歩けるんだぜ?
 そんなムチャクチャなことだってあるんだからさ、
 オレが月に行きたいって思うことだって無理なことじゃねェよ!」

『ヒカル 人間が月になど行けるハズないでしょう』

 そういってあきれたように笑っていた。
 でも人間は月に行ける。

 そんな風に。

 アイツにとっては信じられないくらい変わってしまった時代にあっても、アイツがとてもとても好きだったものは、変わらずに残っている。
 それってもしかしたら奇跡のように幸運なことなんじゃないだろうか。

「・・・悪くないかもしれないな」
 隣りで塔矢が月を見上げたままそう言った。
「一緒に行くか?それでさ、月の上で碁を打とうぜ!」
 なんだかとても楽しくなってきて、まだ差したままの傘を持つ手を夜空へ伸ばしてオレは笑った。
「わざわざ月に行って碁を打つのか?」
 塔矢も笑っていた。
「そ!いーじゃん。そうだ!傘も持っていこうな!」
 オレは傘の柄をくるりと手の中で回す。
「それで?人間は自分の足元を濡らさないようにすることも
 出来ないのになぜ上ばかり見ようとするのだろう、とか
 哲学の話でもするのか?」
「わ〜っそんなメンドー話はしないけど!
 でも、うん、そうだな、月で傘差したらさ、すごく実感出来る気がする。
 何もかも変わってそうな、どんなに遠い未来にも、残ってくものはあるって」

 遠い遠い未来に。
 アイツがもしもまた甦ることが出来た時に。
 アイツのとてもとても好きなものが。
 まだ、残っているように。

「遠い未来に碁を残していくことはプロであるボクらの大切な義務だ」
 月を見つめ続ける塔矢の横顔。
 塔矢は塔矢先生のように囲碁界の柱になっていくんだろう。
 正直言ってオレはまだ自分が無我夢中で碁を打つことが精一杯で、それ以外のことに目を向ける余裕などないのだけれど。
 それでも、オレも漠然と思う。
 オレの、オレたちの力で守っていくって。

「月に行くのにいくらぐらいかかるかな〜。
 ま、タイトルいっぱい取れば平気だよな!」
「キミが取ろうと思っているタイトルのうちの半分は確実にボクが
 もらうから、その分は計算に入れないようにな」
「半分!?半分もやらねーよ!」
「これでも控えめに言ったんだけど」
 意気込むオレに塔矢は微笑む。
 その笑みは余裕からなのかな、と最初は思ったけれど、なんだか珍しく優しい笑顔のような気もしたりして。
 それはたぶん気のせいなんかじゃなくて、塔矢はオレがタイトルを取るような棋士になっていったら嬉しいんだろうな。
 オレも、全部オレが独り占めするよりは、塔矢が半分持ってってしまってもいいかな、なんて思ったりする。
 勝ったり負けたり、そうやってずっとどっちも引かずにいつまでも強くなっていけたら、ただずっと碁を打って勝っていくよりもずっと楽しいし、嬉しい。

「・・・とりあえず、まずは明日の一勝、だな」
 塔矢が視線はずして、前を見つめてそう言った。
「・・・そうだな、オレたちの一勝もさ、
 小さいけれど大きな一歩ってヤツだなよな」

≪ひとりの人間にとっては小さな一歩でも、
 人類にとっては大きな一歩だ≫

 かつて、人類で最初に月の上を歩いた人がそう言ってた。
 オレと塔矢の一局一局が、やがて囲碁界にとっての大きな一歩となる日が来るかもしれない。

「そうですね、アームストロング船長」
 塔矢はかしこまった口調でオレに合わせてくれた。
 そうそう、さっきの言葉はアームなんたら船長が言ったんだっけ、じゃあオレは偉い船長さんとして一言言わないと。
「よし!大きな一歩のために!行くぞワトソン君!」
「・・・一人で行くか?ホームズ」
「あ、あれ?違ったっけ?」
「珍しく一般常識のあるようなことを言うと思ったのに」
 塔矢がため息をついた。
 う〜ん、なんとなく頭に浮かんだ名前を言ってみたけど全然違ったみたいだ。
「こ、細かいことはいいやっ
 じゃあやり直し!
 行くぞ塔矢!
 待ってろよ月!必ずそこへ行くからな!」
 月に向かって指を差して叫んでみた。
 塔矢は「はいはい」と半ばあきれるように笑ってた。

 雲の隙間から漏れる光。
 もしかしたらアイツ、ピューっと飛んでいって・・・あそこにいるかもしれないな。
 案外さ、かぐや姫と碁を打って、ウサギと餅とかついたりして。

 ふと、雲が流れて、綺麗な月が完全に姿を見せた。
「今日、満月だったんだ・・・」
 静かな、温度を感じない綺麗な光。
 アイツが住むにはお似合いの場所かもな。

 オレが月に行くなんて奇跡が叶ったら、オマエともう一度会うことだって叶うって信じられそうで。
 オマエを、まだ探してるんだ。
 きっと、ずっと探し続ける。
 遠い未来まで、ずっと、ずっと。
 続いていく、オレの想い。
 碁や、いつまでも雨を防げない傘や、あの月のように。
 変わらないよ。
 オマエがいつ戻ってきても戸惑うことのないように。
 オマエの居場所を、ずっと守っていくから。

「進藤?」
 黙ったままのオレの顔を塔矢が覗き込んできた。
「どうした?」
「・・・ううん。なあ、塔矢」
「ん?」
「本当にさ、月に行けるようになるくらい・・・強くなろうな」
「・・・ああ」
 塔矢が真剣な顔で頷いてくれたから、オレは想いをいっそう強くする。

 なんだか、泣きたくなるくらいに月が綺麗だった。
 もしもオマエが本当にそこにいるのなら、ずっと待っていて。
 そこから、オレたちの進む道を見守っていて。いつか会いに行く日まで。

「うわっ」
 上ばかり見ていたせいで、オレは水溜りに気付かなかった。
 音を立てて跳ね返った水は、オレのジーパンを濡らす。
「大丈夫か?上を見上げるのもいいけど、自分の足元も見ないとな」
「〜〜〜っわかってるって!」

 こんな風にさ、
 今はまだ自分の足元も守れない傘のようなオレだけど。
 月を目指す、夢を見る。
 それは絶対に、叶わぬ夢じゃないと知っているから。

 水溜りをまたいでから、オレはもう一度月を見上げて。

 それからゆっくりと、開きっぱなしだった傘を閉じた。





「完」
あとがき。
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