(03.9.27) 作:真央りんか様 『夢の通ひ路』
最後にここを訪れたのは、いったい何時の事だったろう。 そう。あれは、ヒカルが塔矢行洋と対局する前の日の事だった。 あの日と同じく、2人の間には碁盤。 これでもかと言うほど置石をしたのに、それも尽く分断され、盤面はすっかり白の領土となっている。 あの日と同じ。 明日は、ヒカルと塔矢アキラの対局日。 もう負けは明らかなのだから、本来なら投了するべきところだが、ヒカルは充分手加減して、わざと黒の地を残してくれている。 あかりは、その地をこれ以上削られないよう、懸命に頭を捻った。 これじゃダメ、あ、こうかな?と次の一手に考え至ると同時に、随分と長考だった事に気付く。 こんな勝敗の決まった対局なのにと、あかりが慌てて顔を上げると、ヒカルは、あかりを見つめ微笑んでいた。 ふわぁ〜〜っと頬が熱くなる。 「な、なんで笑ってんのよ〜〜」 染まった頬を誤魔化すように、ちょっと強めの言葉を返すと、ヒカルは「笑ってないよ」と言いながら、ますます笑う。 あかりは、わざと膨れっ面をしてパチッと石を置いた。 対してヒカルは、表情を微笑みの形にまで戻し、打ちながら独り言を紡ぐ。 「あかりと打つって……な…みが…ったんだ…」 「え?」 小さな声に石の音が重なって聞こえなかった。名前を呼ばれてドギマギしながら、聞き返す。 「いや…偶にはお前と打つのもいいもんだなってさ」 そう答えながら碁盤を見つめる、俯き加減の穏やかな笑顔。大人びたように見えるのは、どことなく寂しげな色が漂っているからだろうか。 幼馴染みの成長を改めて感じ、あかりは顔を真っ赤にして 「私も、久し振りに打てて、嬉しい」 と返すのが精一杯だった。 日の落ちた帰り道。少しだけ見上げる視界で揺れる、金の前髪。 『男の子でしょ!』 と言う母親の一言で、ヒカルが送ってくれる事になった。強制の感もないではなかったが。 急に、横を歩いてるヒカルが思い出し笑いをした。 「なに、怖いよ〜?」 「だってお前、指差し確認てさ〜…」 ヒカルは更に笑う。 先程の対局で、長考中のあかりは無意識に指を動かして、石の流れを確認していたらしい。いざ打とうとした時に、ヒカルから「うん、その手でいいよ」と言われた時は驚いた。 「だから今日は〜〜〜、その、指導碁みたいなものだったから〜〜」 笑い止まないヒカルを、軽くぶつ真似をする。 「いつもはやってないもん」 まだくすくす笑うヒカルに 「まあ、大会の時はやってなかったもんな」 と返され、上げたあかりの手は止まり、そのまま下がった。 「……来てたんだよね」 夏までの事を思い出し、あかりの声は静かになり、ヒカルも、ふっと表情を改めた。 「知ってたんだ」 「うん…尹先生が教えてくれた」 正確には、尋ねられた。『進藤ヒカルがどうしたのか、君達は知らないか』 でもその事は口にしない。 重くなってしまった空気。碁の世界には戻ったが、あの頃の事はまだ心の中にしまっておきたいらしい。 無言のまま交互に踏み出す自分の足元を見つめて歩く。 あかりは、すぅっと息を吸い込み顔を上げた。 「あの、あのね、ヒカル、碁の世界に戻って良かったと思うよ」 夜道で、表情の読みづらい瞳があかりに向けられる。 「だって、ヒカルに受験なんて、やっぱり無理だもん」 わざと冗談めかした口調でそう続けると、ヒカルの瞳もふっと和らいだ。 「なんだよ、無理って。失礼な奴だな〜」 「だってほんとの事だもん。……授業、ほとんど分からないでしょ」 顔を覗くように反応を窺うと、ヒカルは苦笑して頷き返す。 「もうさっぱり。『ここがポイント』とか言われても全然」 「やっぱりもう、いかにも受験用って教え方してるからね」 「眠くなるから、頭の中で棋譜並べてると、今度はそっちに集中しちゃうしさ〜」 「しょうがないな、もう〜」 穏やかな空気が戻ってきた。2人で軽く笑いながら歩く。 「森下先生とか、そこの研究会とかで、一般教養くらいはつけとけって言われるんだけどさ、頭に入んないんだよな」 「ヒカル、興味ないことはホント覚えないよね」 今のクラスの状況は、授業内容も生徒の空気も徐々に受験に向けたものに変わってきている。 ヒカルには居心地悪いことだろう。 機械的に伝えられる知識を一般教養と言われても、身が入らないのは分からなくもない。受験を控えたあかりだって、退屈な知識だと思っているのだから。 そこであかりは、不意に先日の古典の授業を思い出した。思春期の少女が思わず「へぇ」と思えた、知識。 「でも、たまにおもしろい事もあるんだよ」 あかりの言葉に「え〜」と言うように、笑いながらも顔を顰めるヒカル。 「ヒカルのクラスでもやったと思うんだけど…古典の時間でね、昔の人の夢の話」 知ってる?と目で尋ねると、聞いてないと言うように振られる首。 「……平安時代の話なんだけど、あの頃の人たちって私達と夢の解釈が違ったんだって」 見慣れた道を、2人で正面を向いて進む。ヒカルの歩調が僅かに緩んだように思えたのは、気のせいだろうか。 「誰かの夢を見るとするでしょ。現代だとそれは、『自分はその人に好意を持ってるのかもしれない』って考えたりするよね。……その、好きな人の夢を見たりすると、『自分がその人の事を凄く好きだから、夢にまで見るんだ』って解釈するのが、割と自然だと思うんだけど……」 ヒカルは誰かの夢を見たりするのだろうか。 「…平安時代の人達は、逆だったんだって。誰かが夢に現れると、『その人が自分に好意を持っていて、逢いに来てくれた』って考えてたんだって」 軽く上を見上げると、瞬く星星。千年の彼方の人々の暮らしに想いを馳せる。あの頃に放たれた光が、今届いているのかもしれない。 「通い婚が普通の時代で、夜にしか好きな人と会えなくて、だからなのかな、『この身は来られなくても、夢で逢いに来ました』って。そう考えるのが当たり前で、幸せだったのかもね」 あかりは再び、軽く下を向いた。 「今は、なんか脳の仕組みとかそんなので、違うって事は、分かってるんだけど、でも……そういう考えって、羨ましいな」 夢で逢えたら、ずっとずっと嬉しいと思うから。 それからまた無言で歩く。いつの間にか、あかりの家まで、ほんの数mの距離。 「…イツ、俺の………てんのかな」 「え?」 不意の呟きに、あかりはヒカルを見上げた。 前髪に隠れたその瞳は、しかしなぜか、遥か遠くを見つめている事が分かる。 本当に、いつからこんなに背が伸びたのだろう。 いつから、こんな表情をするようになったのだろう。 聞き直したいその感情は、寄る辺もない空気にかわされてしまう。 ヒカルが不意に足を止めた。気付けば既に門の前。 「今日は、おつかれ」 今までの空気が嘘のように、ほわんとした微笑みで軽く声をかけてくるヒカル。 「こ、こちらこそ……送ってくれてありがとね」 あかりの動揺具合には気付いてないように見える。ヒカルは「じゃ、またな」とあっさり踵を返し、今来た道に足を向けた。 「ヒカルっ…」 つい慌てて呼び止めてしまった背中。「ん?」と肩越しに投げかけられる視線。 「……明日、頑張ってね」 きっと明日の対局は、あかりが思うよりもずっとずっと大きなもの。でも、あかりには、ただそれしか掛ける言葉が見つからなかった。 ヒカルの視線がふっと緩んで細められ、口角がわずかに上がった。 「おう」 軽く手を挙げ、軽く答え、そうしてヒカルは帰っていったのだった。 それから少し経った日曜日。 あかりが、駅のホームで電車を待っていると、見慣れた金の光が視界に入った。 「ヒカル」 相手も気付いて、あかりの所にやってきた。 「よお。出かけんの?」 「うん、予備校。ヒカルは、仕事?」 「いや、今日は塔矢と約束しててさ」 結局、あの日の対局は、塔矢アキラの勝ちだった。自分は力になれなかったのだろうかと、ちょっと沈んだあかりだったが、母親経由で伝え聞いたところでは、最近出掛けることが増えたそうで……友達付き合いが出来るようになったのなら、いい対局だったのだろうと思い直したのだった。 「私も高校入ったら、塔矢君の囲碁サロン行ってみようかな〜」 入ってきた電車に乗り込みながら、なんとなくそう告げてみると 「あんなとこダメダメ〜、意地悪なおっさんとかいるぜ」 そう言いながらもヒカルの目は笑ってる。 「それよりも白川先生のとこ、行ってんのか?」 「う〜〜…今、お休みさせてもらってる。でも、高校入ったら絶対行くもん!…ちゃんと囲碁、やるんだ」 そのためにも、今頑張らなくては。気合を入れなおしたあかりを見つめ、ヒカルは不意に思いついたようにデイパックをごそごそしだした。 「そだ。お前にも見せとこ」 取り出された扇子。 「これ買ったんだ」 言いながら1回パチッ。 「へ〜、プロっぽい〜」 「っぽいってなんだよ。プロなの、俺は」 ま、安いけどな、と言いながら、掌に数回ぽんぽんとしている。 「手合いの時だけ持ってってるけど、今日は塔矢に見せようと思って」 でもアイツの事だから、きっと「形ばかり決めても仕方ないぞ」とか言うんだ、あ、それより北島さんかな… そう可笑しそうに話すヒカルは、この前打った時よりもとても自然体に見えて、そのくせ、より大人になったように思えた。 電車が駅のホームに滑り込む。 「あ、ここ」 ヒカルが、じゃな、と軽く手を挙げ降りていく直前、ぽそっと一言「…この前、ありがとな」 空耳かと思ってしまうほどのさりげなさ。ヒカルの背中を、あかりはつい呼び止めた。 「ヒカルっ…頑張ってね」 肩越しに振り返った瞳が笑う。 「おう、あかりもな」 閉まったドア。 走り出した窓越しに、ギリギリまでその後姿を見送り、あかりは深く息を吸い込んで、また「よしっ」と気合を入れなおしたのだった。 「完」
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