このお話の時間設定は、コミックス20巻の ヒカルVS森下先生と北斗杯選手選抜戦 の間ぐらいです。 (03.10.31) 『経験』
「・・・で、ここでオレが投了」 ヒカルは最後の石を盤面に置いた。 「森下九段か・・・なかなか厳しい手を打つ人だったんだな。 お父さんと同期だけど、対局はあまり見たことなかったから・・・。 でもどうしたんだ?キミが負けた碁を並べるなんて」 アキラは父親が経営するこの碁会所でヒカルとはよく打っているが、ヒカルが負けた対局の棋譜を打つことなどまずない。とは言うもののヒカルはプロになってからアキラ以外ではこの一局しか負けていないから機会がなかっただけなのかもしれないが。 ヒカルは、盤面を見つめて神妙に「・・・うん」と言ってから、 「オレ、森下先生相手でも、この対局自信があった。それなのに、結果はこうだった」 と、アキラの顔を見た。 「・・・オマエも、感じた?」 「何を?」 「あの日、オマエは緒方先生と対局して負けただろう? やっぱり緒方先生を怖いと思った?」 ヒカルが研究会で指導を受けている森下九段に負けた日と時を同じくしてアキラも兄弟子である緒方十段に敗れていた。 「・・・思わなかった」 「ホントかよ」 「思わなかった。 だから、対局に負けたのは実力の差だと緒方さんに言われた」 「それってスゲェ大人げなくねェ?緒方先生らしいけどさあ〜」 ヒカルはその時の緒方を想像したのか、まったくしょーがねェなーという顔で苦笑した。しかし、アキラの表情が真剣なままだったのでその笑みを引っ込める。 「・・・じゃあ、ホントに気後れとかなかったんだ・・・」 緒方にそこまで言わせたアキラの強さに今さらながら首筋がぞくりとする。 「塔矢って2歳の頃から碁を打ってるんだろ?」 以前、アキラの父・塔矢行洋からその話を聞いていた。 「よく知ってるね。そう、父に碁を初めて教わったのは2歳の時だ。 その頃から碁石の感触が好きだったな」 アキラは懐かしむように碁石に触れた。 「塔矢は2歳、オレは12歳。10年の差かぁ・・・」 ヒカルは天井を仰ぐように椅子の背にもたれた。 「10年の差があってもさ、オレ、ヨミ合いなら3年で オマエに追いつけたって思える。 でも森下先生とか、塔矢先生とかと打つ時に感じるあのピリピリ するようないつもと違う空気って・・・オマエも持ってるのに、 オレにはまだない」 反動を付けるように身を起こし、ヒカルはアキラを見た。 「それが、『経験』ってもんなんだな。 森下先生や塔矢先生が長い年月をかけて積み重ねた碁の 重みにさ、オレの3年なんて薄っぺらさじゃ耐えられないんだ。 塔矢は・・・ずっとあの重さに触れて育ったんだよな。 オレも、もっともっと強い人と対局して、もっとあの空気に触れたい」 ピリピリした空気に身を投じて、いっそ同化してしまいたいほどに。 そうすればその空気はいっそ心地よく感じられるかもしれない。 今はまだ、怖さばかりを感じてしまうけれど。 不意に、同じような空気を持って、傍らで打っていた人を思い出した。 (もっと、あの空気に触れていたかった) 三年、十年どころか千年の重さを、時として彼は感じさせてくれた。 「なあ塔矢。オマエが『経験を積んだ』って思えたのっていつぐらい?」 「いつと言われても・・・何月何日だ、とか言えるようなものじゃないだろう。 それに、まだまだボク程度じゃそんな風には思えないよ」 「そーだけどさー、あ〜あ、なんかこう、オレは経験を積んだぞ!って 思えるようなものがほしいよなあ〜オレも。 心って、難しいな。形がないからさ」 経験も、それを感じる心も、何もかもが曖昧で。 碁のように白黒付けられたら良いのに。 自分の心なのだから、自分が「経験を積んだ!」って信じられれば良いのだろうけれど、自分の心なのに、それが出来ない。 ヒカルは、形のない空気を掴むかのように握った拳を見つめた。 「手を見せてくれないか?」 「え?」 唐突にアキラにそう言われて、ヒカルは反射的に自分の右手を差しのべる。 アキラは左手でその手を取り、親指の腹でヒカルの爪をスッと撫でた。 「爪が磨り減ってる」 「・・・え?」 「出会った頃はとても碁を打っている指だとは思えなかったけど キミもすっかり碁打ちの指だな」 言われてヒカルは会ったばかりの頃、こんな風にアキラに指を見られたことを思い出し、その時アキラは自分の爪を見ていたのだと今になって理解した。 それから身を乗り出して自分の指を覗き込む。 「・・・ホントだ。全然気が付かなかった」 人差し指の爪に傷がついている。 「この磨り減った爪が、キミの経験だな」 「・・・オレの・・・」 ヒカルは、あらためて自分の爪を見た。 「こんな風に、気付かないうちにいつの間にか変化していくものじゃないかな、経験って。無理矢理爪を削ったからって意味はないだろう?気付かないうちに磨り減っていったこの爪みたいに、キミだって確実に経験を積んでいるさ」 ああ、こんな風に塔矢も自分の爪を見たことがあるんだろうな、とヒカルは思った。 そうなのかもしれない。 こんな風に、少しずつ、でも確実に自分は変わっている。 三年前までは囲碁の『い』の字も頭になくて。 佐為と出会って碁を始めてもまさか自分がプロになるとは思ってもいなかった。 でもアキラの真剣な目に引きずられて。 気が付いたらこんなにも変化した自分がいる。 正直言って自分の中ではあまり変化を感じていなかった。 幼なじみのあかりに「変わったね」と言われてもそんなにピンとこなかった。 客観的に見れば体育だけがとりえだった奴が突然囲碁を始めて三年でプロになるなんて劇的な変化なんだろうけれど。 自分で変化に気付かなかったのは、全力で前だけ見て走ってきたからかもしれない。そうしないととても追いつけない相手がいたから。過去の自分を振り返っている暇なんかなかった。 「・・・この爪が、オレの経験、か」 ヒカルは爪を見ながらあらためて思う。 これが、自分が積み重ねた結果。 これが、経験。 アキラは。 ヒカルの指を見ながら、出会った頃のことを思い出していた。 手つきもおぼつかないヒカルの圧倒的な力に負けて。 そしてやっとの思いで再戦を果たしたヒカルはひどく自分を失望させて。 『もう二度とキミの前には現れない』 そう告げたら、追っていたはずの相手が、追いかけてくるようになった。 あの日から、走り続けている。 時おり立ち止まって、振り向くこともあったけれど。 それでも、再び前へ、前へ。 「・・・っていつまで触ってんだよっ」 ヒカルは、ずっと自分の指に触れたままのアキラの手から逃れるように右手を引っ込める。 「・・・」 アキラは何を言うでもなくヒカルを見つめた。 「・・・な、なんだよ」 「いや、前もこんな風にされたなって思って。経験って変化だと思うけど いくら年月がたっても全然変わらないものもあるんだな」 昔、ヒカルに爪を見せてもらった時のことを思い出してアキラはクスクスと笑う。 「オマエだって唐突でワガママなとこ全然変わってねェじゃん!」 なんとなく子供扱いされた気がしてヒカルは言い返す。 「なんだと?!別に今のは悪い意味で言ったんじゃないぞ!」 「どーだか!成長してないとか思ったんだろ!?」 「でも事実成長してないだろうが!こんな子供じみたことでムキに」 「はいはいそこまで!!」 突如、受付嬢 市河晴美がドンッとアイスティーのグラスを置いて二人の間に割って入った。 「まったく貴方たちの関係もまったく成長しないわねえ」 晴美は腰に手を当ててため息をつく。 「プッ」 「アハハハ」 一瞬顔を見合わせて、思わずヒカルとアキラは笑い出す。 晴美はいつものケンカだと思っていたのに二人が笑い出したので驚いて「何?なんか変なこと言った?」と慌てた。 「市河さんも塔矢って子供みたいだって思うだろ〜?」 ヒカルがまだ笑いながら問う。 「え〜?私はアキラくんが可愛いままでもいーんだけどぉ〜」 聞かれて晴美は両頬に手を当て、なぜだか顔を赤らめて答える。 「・・・市河さんも変わらないね・・・」 そんな晴美の様子に苦笑するアキラ。 ヒカルは「なんだよそれ〜」と言いながらもやはり笑い続けていた。 変わったものと、変わらないものと。 変わっていくものと。 ヒカルは、笑いすぎて涙がにじんだ目元を指でこすりながら、うっすらと傷が付いた自分の爪を横目で再び見つめた。 今まで気にも留めなかったそれが、とても大切で、愛しいものに思えて。 それに気付かせてくれたことを目の前で晴美と楽しそうに話しているアキラに心の中でこっそり感謝しながら、ヒカルはそっと自分の磨り減った爪を撫でた。 『この磨り減った爪が、キミの経験』 「完」
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