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頭が痛くて目が覚めた。 二日酔いなんて、らしくない。 昨日の夜は、対局先のホテルで開かれた祝いの宴会でそれこそバカみたいに飲まされて。でも、楽しくて嬉しくて。 最後の方に残る微かな記憶は、いつもと逆だな、と芦原さんに笑われながら、進藤に宴会場から部屋に担がれるように運ばれて・・・それから・・・。 夢みたいな一日だった。何もかもが嵐のように過ぎ去って、本当だったのかどうかの確かな実感すらない。 隣りで眠る、昨夜の熱の名残が見える進藤の肌が、眠りに落ちるまでの甘い時間が夢ではなかったと伝えてくる。 自分で残した首筋の跡に再度口付けて、ボクはベッドを出る。 放り投げられている二人分の浴衣やらを拾い集め、顔を洗い、服に着替え、備え付けのポットでお茶を入れているうちに、頭痛も少し治まってくる。 朝刊を頼んでいたのを思い出し、ドアのポストへ取りに行き、手に取った一面の記事に目を止める。 ああ、夢じゃない。 ソファに腰かけ、新聞を広げながらお茶を飲み始めた頃、進藤が「おはよ〜」と起きる。 キョロキョロと辺りを見渡し、「・・あ〜・・・荷物は自分の部屋だっけ・・・」とブツブツ言いながらボクがたたんだ浴衣に手を伸ばす。 まだ眠そうだったがその責任はボクにあるので、ヨロヨロと起き上がりボクの隣りに腰かけた進藤の、だらしなく着た浴衣のあわせが逆なのを怒ることは出来ない。 「ほら、お茶入れたよ」 「ん〜さんきゅ〜」 猫舌の彼は、両手で湯飲みを持ってしばらくフーフーと冷ましていたが、ボクの読んでいる新聞が目に入ったのか、身を乗り出してきた。 「あ、すげえ、一面に載ってんじゃん!」 「こら」 新聞を奪われる。 「『史上最年少棋聖誕生』・・・かあ。オマエ、ホントにタイトル取っちゃったんだなあ・・・」 昨日、ボクは、緒方さんを制して念願のタイトルを手に入れた。 最終の第七局までもつれ込み、しかも同じ門下同士での争いだったために、対局場となった静岡のホテルには芦原さんら塔矢門下生と市河さんも来ていた。 そう、進藤も。 対局が終わった後、門下生の人たちは緒方さんの手前、微妙な祝福ムードだった。 そんな雰囲気の中、大量のカメラのフラッシュの前で抱きつかんばかりに喜んでくれたのが棋聖戦最終予選で最後までボクと挑戦権を争った進藤だった。 「ライバルに先を越されて悔しくないですか?」 とマイクを突き出す輩に、 「そりゃ悔しいけど、それはもう最終予選で負けた時点で味わってるし。 塔矢が勝って、すごく嬉しい。 ライバルが強けりゃ、オレももっともっと上を目指せるじゃん。 緒方先生、来年はオレと挑戦者をかけて勝負だからね!」 急に話題を振られた緒方さんは、「それはそれは、強敵だな」と苦笑していた。 「あ、なんだよ〜緒方先生、オレ、本気なのに〜!」 「だから強敵だと言ってるだろう」 そう言って笑う緒方さんは、ボクに負けたことなど吹っ切れたような優しい笑顔だった。 ・・・緒方さんって、何気に進藤に優しい気がする・・・。 そんなやり取りの後、遠慮していた門下の皆も良い雰囲気になって、緒方さんも含めて宴会は大いに盛り上がったのだ。 「げ、すげぇ、棋聖って賞金4,200万なの!?」 「そうだよ。一番賞金が高いタイトルだ」 「うわ〜4,200万・・・。来年オレそんなに貰ったらどうしよ〜」 「安心しろ、貰えないから」 「うるせ。ま、その前にオレ、本因坊戦が控えてるけどな」 「来週だな。リーグ戦最後の手合は」 「・・・うん。勝ったら、本因坊へ挑める」 「勝てよ」 「・・・ああ」 棋聖戦の挑戦リーグ戦はボクが勝ち残ったけれど、本因坊戦ではリーグ戦に行く前に他でもない進藤に負けてしまった。 ボクがタイトルに挑んだように、進藤にも大勝負が待っているのだ。 ボクがタイトルを取ったことは、彼の力になっただろうか。 「本因坊の賞金っていくら?」 「・・・何?さっきから賞金賞金って、キミはお金の為に碁を打っているのか!?」 「違うって!いや、なんつーか、碁を打って、それで何千万なんて お金になるなんてさ・・・なんか、すごいってゆーか、怖いってゆーか・・・。 そりゃ、野球選手の年俸○億円なんて話題よくあるけどさ。 あ、でもよくよく考えたら塔矢先生の年収だって億単位だったんだよな。 本因坊戦でもしもオレがタイトル取ったらさ、そのオレの碁に対して 何千万も払うヤツがいるってことだろ? ・・・わっかんね、オレ。 スポンサーなんてさ、碁打ちでもないヤツが、 なんでそんな金だそうって気になるんだろう・・・?」 ずいぶんと意外なことを考えていたようだ。 「スポンサーになる理由なんて、宣伝か企業イメージの向上だろうけどね。 ああ、でもこの間テレビであるタレントが興味深いことを言っていたよ」 「どんな?」 「『ピカソの絵に何十億という値段が付く。 そのお金があれば難民とか、苦しんでいるたくさんの人々を救える。 でも、そういう人々には使わなくても、 ピカソの絵には何十億というお金を払う人がいる』 違った角度から見れば、そういうことだって話。 それが、文化の価値というものだと言っていた」 「文化の価値・・・」 「ピカソの絵もボクらの碁も同じことだ。 あの賞金は、ボクたちの棋譜自体の価値というよりは、 碁という歴史ある文化への価値なんだと思う。 生活に苦しむ人々に対して、食べ物よりも ピカソの絵の方が価値があるなんて言葉通じないだろう。 ボクらの碁だって一文の価値もない。 人々が豊かで、平和で、幸せで。 そういうものの上に始めて成り立つんだと思う、ボクらの棋士という仕事はね」 「確かに、日本が平和じゃないと、碁なんか打ってる場合じゃないもんなー。 良かった〜オレ囲碁を仕事にして暮らせる国に生まれて!」 「そうだね」 本当は、そんな単純な話ではないのかもしれない。 あの時あのタレントが言っていたように、たくさんの命を救うよりも一枚の絵の為に払われるお金がある、それが現実なのだ。どんな綺麗事で言い訳しようとも。 「でもオレ、碁でお金もらえない世界になっても、打ち続けるよ。 食べる物がなくても、豊かな生活が出来なくても。 それが、オレにとっての囲碁の価値だからな」 そう言った進藤の笑顔につられてボクも微笑む。 重くなりかけた気分も晴れてゆく。 そうだ。お金で計られる価値なんか関係ないんだ。 大切なのは、ボク自身にとっての価値と、それから。 「ああ、ボクもキミと共に打ち続けるよ」 何よりも、ボクと打つことに価値を見出してもらえるように。 |
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