真夜中に碁を打っていると、佐為の気配を感じる時がある。
そんな夜は、もうどうしようもなく佐為に会いたくなって、朝日が昇るまで碁盤に向かってしまう。
佐為はオレの打つ碁の中にいて、打っている間は佐為が側にいるような気がするから。
ずっと、一緒にいたかったんだ。
だから、いつまでも打ち続けてしまう。
なのにいつの間にか眠ってしまって、目が覚めると一人で。
そんな朝は、もうどうしようもなく哀しくて、涙が止まらなくなってしまう。
今日も、そんな風に目が覚めた。
そして思うんだ。
佐為が帰ってこないかなって。
でも。
帰ってきたら、オレはどうするんだろう、って・・・。
「だから、ここのツケが良くないと・・・進藤?」
「・・・ん?あ、わ、わりぃ、そうだよな、ここがまずかったな」
ぼーっとしてたのはほんの一瞬だと思ったのに、ほんとそういうとこ見逃さないよな、塔矢ってば。
「どうした?体調が悪いなら今日は帰った方が」
「平気平気!ちょっと寝不足なだけ!」
「寝不足って・・・今日手合いだったのになんで寝不足なんだ。
体調管理も棋士の大切な仕事だぞ」
「う、うるさいなーわかってるってば」
そう、今日は大手合いだったのにオレは朝方まで棋譜並べをしてしまって、睡眠不足のまま対局したせいで危うく負けそうになった。そんな対局の後、塔矢の碁会所に来ていた。
でもそうさ、わかってるんだ。手合いの前に寝不足になるのが悪いことだって。
塔矢に言われるまでもない。
「ったくオマエってうるさい姑みてぇ」
毎回言ってしまってから(しまった)って思うけど、オレはこんな風にすぐ塔矢が怒るようなこと言っちゃうんだよあ。
で、案の定塔矢は怒る。
あ〜また眉間にシワ寄せちゃって。
う〜また始まった、説教が。
ホント、朝にお母さんが見てる番組に出てくる姑みたい。
出来の悪い嫁になった気分。
「進藤、ボクの話聞いてないな?」
あ、いけね、ホントに聞いてなかった。
「なんだよーもー悪かったってば。対局の前は気を付けるよ」
オレは石を片付け始める。次はどの棋譜を検討しようかな。
「・・・進藤、キミ、本当に体調が悪いんじゃないのか?」
さっきまでの怒鳴っていた時とはうってかわって真剣な口調で聞いてくる。
「平気だって。さ、次は何並べる?それとも打つ?」
「・・・目が、はれているぞ」
言われて思わず目元を隠すように指を当ててしまう。
そうしてからしまった、と思って慌てて
「だ、だから寝不足だって言ってるだろ」
と言ったものの、塔矢にはもうそれが泣いたせいだってわかってしまったみたいだった。
オレは恥ずかしくなって乱暴に石を碁笥に戻す。
「キミが碁をないがしろにしてまで寝不足になるなんて
何か悩みごとでも?」
オレはちょっとびっくりして塔矢をマジマジと見てしまう。
コイツ、オレの悩みごと聞いて相談にのったりするつもりなのか?
あ、でも前に碁を打たなくなったオレを心配して(?)学校まで来たこともあったっけ。意外とコイツ、面倒見がいいのかなあ。
塔矢とそういう普通の友達同士がするようなことしたことないから逆にどんな風に相談にのってくれるのかちょっと興味あるよなあ。
それに・・・オレ、時々思う。
塔矢に佐為のこと全部話してしまいたいって。
塔矢だったらきっと信じてくれるだろうし、オレが感じてる寂しさとか、そういうの、わかってくれる気がするし。
でも、話せない。
話してしまったら佐為のことが全て思い出になってしまう気がする。
オレの中では佐為のこと、ただの思い出として片付けることなんて出来ないんだ。
オレはまだ・・・佐為がひょっこり帰ってくるんじゃないかって、そう、思ってるから。
塔矢に話してしまったら、オレはきっとすっきりして、佐為の思い出を笑って話せるようになるんだろうけど、哀しくても、寂しくても、今はまだ佐為のこと、オレの中に重く残しておきたい。
オレがしばらく黙っていたから、塔矢はオレが何か言い出すんじゃないかって、じっと待っているみたいだった。
もしも、塔矢がもう二度と佐為と打てないって知ったら、どう思うかな?
塔矢は塔矢で、まだ佐為のことを待っていたりするんだろうか・・・。
オレのせいで佐為はいなくなったから、もうオマエとは打てないんだって言ったらなんて言うだろうか・・・。
いや、それよりも・・・佐為と出会っていたのが塔矢だったら、塔矢はどうしたかな・・・。
「・・・あのさ、塔矢」
「うん」
「オマエに・・・すっごく大切な人がいてさ、
でも、碁を打つとその人がいなくなってしまうっていったら
オマエ、どうする?」
「・・・質問の意味がよくわからないが・・・
大切な人と、碁と、どちらを取るかということか?」
「あ、いや、なんてゆーか・・・自分が碁を打つことでさ、
辛い思いをする人がいるとしたらさ、どうするのかなって」
我ながら質問がアバウトだなあと思う。
でも、佐為のことを話せないから結局うまく訊くことなんて出来ない。
「・・・ひょっとして恋人が出来たとか?」
「え!?ち、違うっ!そんなんじゃねェよ!!」
予想もしてなかったこと言われて焦った。
今までの会話を思い浮かべて、うわ〜そういう意味に取れるな〜とオレがちょっと赤くなったりしたもんだから、ますます塔矢の眉間に皺がよる。
「もしもキミが恋人のために時間を費やして
寝不足だとか下手な碁を打ったりとかしているのだとしたら
かなり見損なうぞ」
「だから違うってば!」
コイツってホント頭が固い。
塔矢って彼女とかできて「私と碁とどっちが大切なの!?」って言われたら迷わず「碁」って言いそうだよなあ。・・・ま、オレもそうかもしんないけど。
「・・・碁を打つことで失う相手がいるというシチュエーションを
他に想像できないのだが・・・まあ、そうだな、たとえ何があっても
ボク自身が碁をやめることは出来ないと思う」
「・・・大事な人と別れることになっても?」
「もしもそういう時がきたら、自分にとって一番大切なものは何かを考える。
結局ボクは・・・ボク自身が後悔しないようにすると思う」
「相手の気持ちよりもってこと?」
「キミは?キミから碁を取り上げようとするものを
自分自身より大切だと思えるのか?」
『オレから碁を取り上げるもの』。
そんな風に佐為のこと考えたことなかった。
でも・・・もしかしたらそうなのかもしれない。
佐為の碁は、オレなんかいらないって思ってしまうほどに強くて。
佐為の存在はオレの中で大きくて、大きすぎて。
だから、オレが、アイツを消しちゃったんだ。
塔矢が言うように、オレは佐為よりも自分自身の碁が大切だと思ってしまったから。
「・・・塔矢・・・でもオレ、すごく後悔したんだ・・・っ」
佐為がいなくなってしまって、因島まで探しに行ったり、オレが碁を打たなければ帰ってくるんじゃないかって打つのをやめたり、佐為が帰ってくるならなんだって出来るって思った。
もしも、佐為が帰ってきたら、と。
何度夢見たことだろう。
「・・・それは・・・キミが一時期打つことをやめたことと関係があるのか?」
塔矢の問いかけにオレは答えられなかった。
でも、沈黙は肯定と同じだ。
オレは俯いていたけれど、塔矢の視線を痛いくらい感じた。
ダメだ、ただでさえはれぼったい目がまた熱くなってきた。
普段は佐為のこと思い出しても平気なのに、不意に変なスイッチが入っちゃって何かが溢れて零れそうになっちゃうんだ。
「わりィ、なんかオレやっぱり調子悪い。帰る」
オレは立ち上がって、顔を見られたくなかったから椅子にかけてあった上着を取るのを装って塔矢に背を向けた。
「・・・それでもキミは、帰ってきたんだな」
その言葉に思わず振り向いてしまうと、思いがけず塔矢は微笑んでいた。
「ボクは今キミがこうして碁を打っていることが嬉しい」
「塔矢・・・」
オレが言葉を続けようとした瞬間、
「なんだ進藤、帰るのか?」
と聞き覚えのある声がした。
「緒方先生」
「緒方さん」
塔矢も突然の緒方先生の来訪に驚いたように少し腰を浮かせて言った。
「珍しいですね、最近いらしてなかったのに」
「ここのところタイトル戦で忙しかったからな」
塔矢の言葉に緒方先生は答えると側にある椅子に腰掛けた。
「進藤、もう少しいろよ。今日はオマエに会いに来たんだぜ?」
緒方先生は煙草に火をつけるとオレを見てにやりと笑った。
「オレに?」
「ああ。オマエが最近ここに入り浸ってるって噂を聞いてね。
なんだかんだとあの囲碁セミナー以来オマエとゆっくり話をしてないだろう?」
囲碁セミナー。
思い出す、アイツと緒方先生のあの真夜中の対局。
「良かったなアキラくん。宿命のライバルとこうして碁を打てるようになって」
「緒方さん、表現が大げさですよ」
塔矢は苦笑ながら緒方先生に答えていた。
宿命のライバル、か。
でも、それって本当にオレのことなのかな・・・。
「なんだ進藤、立ったままで。座れ。少しぐらいオレに付き合え」
緒方先生に促されるまま、オレはまた椅子に座り直した。
「どうだアキラくん?最近の進藤はキミが満足出来るくらいに強いか?」
本人がいる前でそんなこと聞くなよ!と思いながらも、オレもちょっと聞いてみたくて黙っていた。
「そうですね、こうしてよくここで打っていますが良い刺激になります」
・・・塔矢ってオレに対してはズケズケとひどいこと言うけど、他の人にはホントきちんと応対するよなあ。なんだよ、この差は。
笑顔で緒方先生に答える塔矢を見ながら、オレはなんだかムカムカしてきた。
「そんな上辺だけの答えはどーでもいーよ。
オマエ、ホントにオレで満足してるのか?」
怒ってるような口調になってしまった。いや、実際怒ってるんだけど。
「進藤?」
「だってオレ、オマエに勝ってねェじゃん!
初段だし、リーグ戦にも行けないし、まだ全然オマエに追いついてない!
そんなオレにオマエが満足してるわけねェじゃん!」
一気にそう言ったオレに、塔矢も緒方先生も驚いてるみたいだ。
・・・オレも、なんでこんなに熱くなってるのか自分でもわからない。
「・・・たしかに、今のキミにボクは負けると思っていない」
やっぱりそうだ。塔矢はオレに対してはこうなんだ。
別に・・・コイツに優しさなんか求めてないからいちいち気にしてられないけど、それでもたまには辛い。
塔矢は「今の」キミと言った。それが、辛い。
「でも」
と塔矢がオレを見る。
「ボクはキミと打つこの時間に満足している。
そうでなければこんな風にたびたびキミと打ったりしない」
「そうだな。アキラくんは進藤と違って忙しい身だからな」
緒方先生がオレを見てにやにやと笑う。
どうせ子供じみたことで意地になってるオレがおかしいんだろう。
「・・・でもさ、もっともっと強いヤツがいたら、そいつとずっと打ってたいだろ?」
「キミより強い人なんか大勢いる。お父さんも、緒方先生だって。
それでもキミと打つ時間が無駄なわけじゃない。
進藤だってそうだろう?たとえばボクのお父さんがキミとこうして
毎日打ってくれると言ったら、キミはボクと打たなくてもいいのか?」
「・・・そんなこと、ねえけど」
塔矢の言いたいことはわかる。
でも、やっぱりオレは考えてしまう。
もしも。
オレが「今の」オレじゃなくて。
・・・「佐為が打ってた頃の」オレだったらって考えたら。
「おっとそう言えば進藤、オマエに話しておきたいことがあって
今日はここに来たんだ」
黙りこんだオレに、緒方先生は新しい煙草に火をつけながら言う。
「何?」
「中国での塔矢先生の噂なんだが」
「父の?」
塔矢も緒方先生の顔を見る。
「塔矢先生は、ある打ち手との再戦を目標にしているそうだ」
そう言って緒方先生はオレを見つめた。
オレは、目をそらしたかったけど、我慢した。
だってわかっちゃったんだ、誰のことか。
それは塔矢も同じだったみたいで、オレの方を見ている。
「塔矢先生が打ちたい相手は、saiだ」
久々に他人の口から佐為の名前を聞いた、と思った。
オレ自身がずいぶんその名前を口にしていなかったから、緒方先生の口からその名前が出た瞬間、ざわっと心が疼いた。
「saiだよ、進藤。塔矢先生はおそらくsaiと再び戦うために
プロを辞めたんだ。タイトル保持者の地位よりも、
自分を荒波に置いて高めるためにな」
たぶん、緒方先生の言っていることは当たっているんだと思う。
そうなんだ・・・塔矢先生、佐為ともう一度対局したいんだ・・・。
だから今、あんな風に。
「進藤、オレはオマエがsaiと関係があるって今でも思っているぞ」
オレを見る緒方先生の目は真剣だった。
思い出す。病院の廊下で言われた言葉。
「だから何度でも言う。
saiと打たせろ」
繰り返されたその台詞で、壁に打ち付けられたあの時みたいな衝撃を体に感じた。
緒方先生は本気だ。
本気で、棋士として佐為に挑みたいんだ。
だから少しでもそれが叶えられそうなオレにそう言う緒方先生は間違ってない。
間違ってないけど。
「オマエなら出来るはずだ。あの日、先生とsaiを対局させたように、
オレとsaiを打たせることが!
進藤、なぜ隠す?オレはこの耳で聞いたんだ。あの日、オマエが
先生とsaiの話をするのを。
saiともう一度打ちたいだろうと先生に聞くのを!
オマエがどうごまかそうと、オレには通用しない。
オマエとsaiには何か関係が」
「・・・くせに」
「進藤?」
「なんにも知らないくせに!」
俯いたまま出してしまった声は震えてた。
でも、我慢していたら涙が零れそうだったんだ。
「佐為と一番打ちたいと思ってるのはオレなんだ!!」
ずっと、胸にしまっていた気持ちがあふれてくる。
緒方先生は突然叫んだオレに驚いてるみたいだ。
でも、オレはもう自分を止められなかった。
体が勝手に立ち上がって、叫びだす。
「オレ、佐為と打ちたい!
緒方先生より塔矢先生より、オレが一番そう思ってる!!
佐為と打ちたいよ!ずっとずっとそう思ってる!
オレが知りたいよ!緒方先生、佐為と打たせてよ!!」
そこまで言ってしまったら、すごい呼吸が荒くなってて自分でもびっくりした。
でも逆に気持ちはどんどん落ち着いてくる。
緒方先生に佐為と打たせてくれだって?
何言ってるんだろうオレ。
そんなこと、無理に決まってる。
バカみたい、バカみたいだオレ。
でもオレはずっと思ってた。
誰か教えてくれないかなって。
佐為と、再び会う方法を。
「本当に・・・知らないのか?」
緒方先生は長くなってしまっていた煙草の灰を灰皿に落とす。
「・・・知らない」
オレは糸が切れた人形みたいに椅子に腰掛けた。力が抜けていく。
「・・・そうか」
長く煙を吐き出してから、緒方先生は煙草の火を消した。
緒方先生がオレの言葉に納得したとは思えなかった。
それでも追求をやめてくれたことに、オレは緒方先生の意外な一面を見た気がした。
この人も、本当に真剣に佐為と打ちたいと願ってるんだ。
神の一手を目指す棋士なんだって、今さらだけど思った。
「・・・緒方先生」
「なんだ?」
一瞬ためらったけど、オレは聞いてみることにした。
「もしも・・・オレが佐為みたいに強かったら嬉しい?」
「オマエが?おいおい、オレはsaiがオマエの師匠か何かだとは
考えていたが、オマエ自身がsaiだったとしたらそれは困る。
その年であんな碁を打たれたら、オレは今までの人生を考え直さなければ
ならなくなるな」
緒方先生は笑う。・・・そりゃそうだよな。
「・・・塔矢は?塔矢はオレが佐為みたいだったら嬉しいよな?」
ずっと、オマエは佐為を追いかけてたんだから。
「ボクは、進藤がsaiだと思っていた」
塔矢は、オレの目をまっすぐに見て静かにそう言った。
「小六のあの日、ここでキミに負けた時、
ボクはキミが生涯のライバルだと思った。
その気持ちは今でも変わらない。
でも、あの日のキミはもうここにはいない」
塔矢の言葉を痛いと思った。
佐為がいなくなった時、オレは神さまに祈った。
もう打ちたいって言わないから。
全部、佐為に打たせるから。
だからお願い。
佐為と会った一番はじめに時間を戻して。
祈りは届かなくて。
佐為は帰って来なくて。
囲碁を打たなくなったオレに会いに来た塔矢にオレは心の中で謝った。
ごめん塔矢 佐為がいないんだ。
今でも時々そう思う。
塔矢がどんどん先に行ってしまって、それなのに自分が立ち止まっていると思う時、オレが佐為だったら、オマエと同じ速度で走ってあげられるのに。
もっともっと速く、オマエと走っていけるのにって。
「オマエもずっと・・・佐為と打ちたがってたもんな。
・・・オレの代わりに佐為がここにいればいいのにな」
そうすればきっと、塔矢も緒方先生も、
オレも。
嬉しいのに。
「進藤、それは・・・」
塔矢が言いかけた時、
「お話中ごめんなさい。緒方先生、今日指導碁よろしいですか?」
と不意に市河さんの声がした。
「ああ、かまわない」
緒方先生は答えて立ち上がりオレを見た。
「進藤、オレは塔矢先生を尊敬している。
でも、塔矢先生になりたいと思ったことはないぜ?」
そう言って緒方先生は笑みを浮かべてオレを見た。
どういう意味?って聞こうとしたけど、緒方先生はそのまま市河さんとお客さんの方へ行ってしまう。
「キミの打つ碁が、キミのすべてだ」
緒方先生を目で追っていたオレは、不意に聴こえた塔矢の言葉にドキッとした。
「キミに、そう言ったのを覚えているか?」
「・・・ああ、覚えてる」
忘れるわけがない。
オレの碁を塔矢が認めてくれたあの日のこと。
「緒方先生が言いたかったのもそういうことだろう。
saiはsai、進藤は進藤だよ」
塔矢は碁盤に残っていた最後の黒石を碁笥に入れた。
カチャリ、と小さな音がした。
「もしも、今キミがいなくなって、キミの代わりにsaiと打つことになったら、
ボクは今度はキミを探すんだと思う」
「・・・オレを?」
塔矢はまっすぐオレを見ていた。
「だってさ、だって佐為がいたらオレなんかオマエに必要ないだろ?」
塔矢がずっと探していたのは佐為なんだから。
「どうしてそう思う?」
「どうしてって・・・だって・・・佐為の方が強い」
「きっと、そうだね」
「塔矢・・・オレか佐為かどっちか選べって言われたら、
佐為を選ぶだろ?」
「どうして選ばなきゃならない?」
「・・・どうしても。どうしてもどっちか一人って言われたら」
塔矢は黙ったまま、オレを見ていた。
オレ・・・何を聞いてるんだろう。
なんて答えてほしいんだろう。
『佐為』って言われたらどうしようって思ってる自分がいて驚いた。
でも『キミ』って言われてもオレは信じられないだろうし、許せないような気がした。
「キミは、どんな答えを望んでいるんだ?」
「ど、どんなって・・・」
「どんな答えでも納得しないって顔をしている」
「そんなこと・・・ねえよ」
・・・図星だ。オレ、支離滅裂なこと言ってるのに塔矢は真剣に考えてくれてる。
「でも、ボクの答えは一つしかないよ」
塔矢のまっすぐな目。
ああ、あの目だ。
オレが追いかけたいと思った、あの目だ。
あの時オマエは佐為を見ていた。
「進藤、キミに『もう打たない』と図書室で言われた後、
ボクはもう一度後日学校に行こうか、棋院で待とうかと
いろいろ考えた。なんとかしてもう一度キミに打ってもらいたかった。
でも・・・気付いたんだ。
キミにもう一度打ってもらうために必要なのは言葉ではないと。
ボクが全力で前に進み続ければ、キミは必ず追いかけてきてくれる。
そう信じて打ち続けるしかないと思った。
本因坊戦予選決勝の日、萩原九段と打ちながら、キミのことを考えていた。
ボクはこのまま必ず上に行くから、キミもここへ来い、追いかけて来い。
その思いがあの対局でボクを上へと突き進めた。
キミが碁をやめないとボクに言ってくれたあの日、
ボクもこのまま全力で走り続けていけると思った。
進藤、キミがどんな碁を打とうとも、ボクに上へと進む力を
あたえてくれるのはいつだってキミ自身だったんだよ。
キミが最初にsaiのような素晴らしい碁を打ったからじゃない。
キミがボクを追う、その力がボクを動かしてきた。
キミの打つ碁がキミの全てだ。
saiのような碁でも、あの三将戦のような碁でも、今のキミの碁でも、
ボクを動かす力は変わらない。
だからボクはキミを選ぶ。
それは、ボクをずっと追いかけているのはsaiではなくキミだからだ」
そう言った塔矢の顔が、オレは夢の中に出てきてくれた最期の佐為の微笑みと重なった。
佐為、オレずっとオマエに帰ってきてもらいたいって思ってた。
もしも、オマエが帰ってきたら。
オレ、すごく嬉しいよ。オマエの碁のすごさが今ならわかる。
だからオマエにいっぱい対局させてやる。
塔矢も、塔矢先生も緒方先生も皆喜ぶだろうな。
オレも、オマエがどんな碁を打つのか見ていたいし、オレもオマエと打ちたい。
でも。
きっとまたオレは、オレ自身が打ちたくなって、オマエに打たせることが出来なくなって、オマエを悲しませちゃうんだろう。
まだまだオマエに敵わないって思う。それでもやっぱりオレが打ちたい。
オマエがもしも帰ってきてくれたら、オレはすごく嬉しい、これはホントだよ。
でもごめんな、佐為。
やっぱりオマエにずっと打たせてやることは出来ない。
きっと・・・だからオマエはもう帰って来ないんだろうってホントはわかってる。
もしかしてオマエはオレに利用されただけだって思ってるのかもしれないな。
・・・それでもオレは夢の中でのあの笑顔が本物だったって信じたい。
そう思うことも、自分勝手な願いなのかもな。
都合の良い、夢。
目の前に白いハンカチを差し出されて、オレは初めて自分が泣いていることに気付いた。
気付いてしまったらとても恥ずかしくなって、慌てて「いい、平気」と首を振ったら動きに合わせて涙がパラパラと落ちてしまって、オレは思わず「うわあっ」とか言っちゃってますます慌てて袖口でゴシゴシと涙をぬぐった。
塔矢は黙ったままハンカチをポケットにしまった。
あんな風にハンカチを差し出すヤツ、今時いないよなーとか思っちゃったりするけど、そういうこと恥ずかしげもなくやるあたりがとても塔矢らしいと思った。
塔矢はいつもまっすぐで、オレにすごく正直だ。
そんな塔矢だから、オレもまっすぐ追いかけていけるんだ。
「・・・塔矢」
オレは、まだちょっと涙目なのを見られるのはいやだったけど、塔矢の顔をまっすぐ見た。
「オレ、いつか、オマエにはちゃんと全部話すから。もうちょっと待っててな」
「ああ。キミのおかげで待つことにはずいぶん慣れたからね」
塔矢は笑う。
「悪かったな!見てろ、すぐに強くなってオマエのことなんか追い越してやるから!
そしたらオレもオマエのことちゃ〜んと待っててやるからな!」
「キミを待たせるつもりなんかないよ」
「そんなことねーよ、絶対オレ、オマエにオレのこと追いかけさせてやるんだから!」
「良かった」
「え?」
「いつものキミだ」
「・・・うん」
そう言われてみれば、朝からずっと感じていたもやもやが消えていた。
「もう一局打てるか?」
さっき調子が悪いから帰ると言ったのを塔矢は覚えていたのか、ちょっとうかがうような口調だった。
「ああ、打つよ」
オレは迷わず答えて碁笥の蓋を開けて、中に入っていた真っ白な石を手に取る。
この石が、オレと佐為を、オレと塔矢をつなぐもの。
オレは碁盤に白石を一つ置いた。塔矢が黒石を握る。
「・・・十二。オマエが黒だな」
「ああ。お願いします」
「お願いします」
この先幾度となく繰り返されるだろう言葉を始まりに、塔矢の黒石が碁盤の上で音を立てた。
パチン。
オレが打つ白石の音。
こうやって、オマエに応えるのはオレ自身でありたい。
オマエが言ってくれた通り、オマエを追いかけていたのはオレだってことが、大切な真実だから。
佐為。
オレは、オマエのことを思い出すと時々ちょっと辛くなるけど。
それでもオマエのこと絶対忘れない。
オレの碁の中にいるオマエのことを想いながら打ち続けていく。
それが、オレが打たせてやれなくて辛い想いをさせたオマエに、オレが出来るたった一つのことだから。
そしていつの日か、オレは佐為より強くなってみせる。
そしたら塔矢、オマエにすべてを話すよ。
オレの中にいる、もう一人のオレのこと。
オマエと一緒に走り続ければ、いつの日か必ず『その日』にたどり着けるから。
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